項王聞之大怒乃北伐齊
項王(項羽)はこれを聞き、大いに怒り、そこで、斉を討(う)ちに北へ進んだ。
齊王田榮兵敗走平原平原人殺榮
斉王田栄の兵は敗(やぶ)れ、平原に逃走した。平原人は斉王田栄を殺した。
項王遂燒夷齊城郭所過者盡屠之
項王(項羽)は遂(つい)に、斉の城郭(じょうかく)を焼き払い、通過した所の者(城郭)はことごとく陥落(かんらく)させた。
齊人相聚畔之榮弟收齊散兵
斉人は互いに集まってこれに叛(そむ)いた。斉王田栄の弟の斉将田横は斉の散りじりに為った兵を収(おさ)め、
得數萬人反擊項羽於城陽
数万人を得て、西楚覇王項羽に城陽に於いて反撃(はんげき)した。
而漢王率諸侯敗楚入彭城項羽聞之
しこうして、漢王劉邦は諸侯を率(ひき)いて楚を敗(やぶ)り、彭城(項王の都)に入った。西楚覇王項羽はこれを聞き、
乃醳齊而歸擊漢於彭城
そこで、斉をあきらめて(醳=釈?)帰り、漢を彭城(項王の都)に於いて撃(う)った。
因連與漢戰相距滎陽
因(よ)りてうちつづき漢と戦い、栄陽で相(あい)対峙(たいじ)した。
以故田復得收齊城邑立田榮子廣為齊王
故(ゆえ)を以って斉将田横はふたたび斉の城邑を収(おさ)めることを得た。故斉王田栄の子の田広を
立てて斉王と為し、
而相之專國政政無巨細皆斷於相
しこうして、斉将田横はこれを補佐し、国政を専(もっぱ)らにした。政治は巨細(大小)無く皆(みな)斉相国田横に於いて処断(しょだん)された。
定齊三年漢王使酈生往說下齊王廣及其相國
斉相国田横が斉を平定して三年、漢王劉邦は酈生(酈食其)をつかわし、斉王田広及びその相国田横を説(と)き下(くだ)しに往(ゆ)かせた。
以為然解其歷下軍
斉相国田横はその(説の)通りだと思い、その(斉の)歷下(地名)の軍を解(と)いた。
漢將韓信引兵且東擊齊
漢将韓信(漢相国大将軍韓信 (淮陰侯の方))は兵を引いてまさに斉を撃(う)ちに東に進まんとし、
齊初使華無傷田解軍於歷下以距漢
斉が初(はじ)め斉将華無傷軍、斉将田解軍を歷下につかわし漢と対峙(たいじ)するを以ってした。
漢使至乃罷守戰備縱酒且遣使與漢平
漢の使者(酈食其)が至り、そこで、守戦の備(そな)えを止(や)めて、大いに酒宴をし、まさに使者を遣(つか)わして漢と和平しようとした。
漢將韓信已平趙燕用蒯通計
漢将韓信(漢相国大将軍韓信)はすでに趙、燕を平定しおわり、蒯通の計(はか)りごとを用いて、
度平原襲破齊歷下軍因入臨淄
平原を渡(わた)り、斉の歷下軍を襲(おそ)い破(やぶ)り、因(よ)りて臨淄(斉の都)に入った。
齊王廣相怒以酈生賣己而亨酈生
斉王田広、斉相国田横は漢使酈生(酈食其)が己(おのれ)をあざむくを以ってしたと怒(おこ)り、しこうして、漢使酈生(酈食其)を烹刑にした。
齊王廣東走高密相走博(陽)
斉王田広は東に(斉の)高密に逃走し、斉相国田横は(済北の)博陽に逃走した。
守相田光走城陽將軍田既軍於膠東
斉守相田光は城陽に逃走し、斉将軍田既は膠東に於いて軍営をしいた。
楚使龍且救齊齊王與合軍高密
楚は楚将龍且をつかわし斉を救援させ、斉王田広はともに合わせて高密に軍営をしいた。
漢將韓信與曹參破殺龍且虜齊王廣
漢将韓信(漢相国大将軍韓信)は漢右丞相将軍曹参とともに楚将龍且を破(やぶ)り殺し、斉王田広を虜(とりこ)にした。
漢將灌嬰追得齊守相田光
漢将灌嬰は斉守相田光を追いかけてつかまえた。
至博(陽)而聞齊王死自立為齊王
(済北(斉地)の)博陽に至ると、しこうして、斉相国田横は斉王田広が死んだと聞き、自(みずか)ら立って斉王と為った。
還擊嬰嬰敗之軍於嬴下
漢将灌嬰を撃(う)ちに還(かえ)ると、漢将灌嬰は斉王田横の軍を嬴下に於いて敗(やぶ)った。
田亡走梁歸彭越彭越是時居梁地
斉王田横は逃げて梁に走り、建成侯魏相国彭越に帰属した。建成侯魏相国彭越はこの時、梁(魏)の地に居住しており、
中立且為漢且為楚
中立(ちゅうりつ)して、まさに漢の為(ため)にせんとし、まさに楚の為(ため)にせんとしていた。
韓信已殺龍且因令曹參進兵破殺田既於膠東
漢相国大将軍韓信がすでに楚将龍且を殺し、因(よ)りて漢右丞相将軍曹参に令(れい)して兵を進めて、斉将軍田既を膠東(斉地)に於いて破(やぶ)り殺させ、
使灌嬰破殺齊將田吸於千乘
漢将灌嬰をして斉将田吸を千乗に於いて破(やぶ)り殺させた。
韓信遂平齊乞自立為齊假王漢因而立之
漢相国大将軍韓信は遂(つい)に斉を平定し、自立して斉の仮(かり)の王に為ることを乞(こ)い、
漢は因(よ)りてこれを(斉王に)立てた。
項王(項羽)はこれを聞き、大いに怒り、そこで、斉を討(う)ちに北へ進んだ。
齊王田榮兵敗走平原平原人殺榮
斉王田栄の兵は敗(やぶ)れ、平原に逃走した。平原人は斉王田栄を殺した。
項王遂燒夷齊城郭所過者盡屠之
項王(項羽)は遂(つい)に、斉の城郭(じょうかく)を焼き払い、通過した所の者(城郭)はことごとく陥落(かんらく)させた。
齊人相聚畔之榮弟收齊散兵
斉人は互いに集まってこれに叛(そむ)いた。斉王田栄の弟の斉将田横は斉の散りじりに為った兵を収(おさ)め、
得數萬人反擊項羽於城陽
数万人を得て、西楚覇王項羽に城陽に於いて反撃(はんげき)した。
而漢王率諸侯敗楚入彭城項羽聞之
しこうして、漢王劉邦は諸侯を率(ひき)いて楚を敗(やぶ)り、彭城(項王の都)に入った。西楚覇王項羽はこれを聞き、
乃醳齊而歸擊漢於彭城
そこで、斉をあきらめて(醳=釈?)帰り、漢を彭城(項王の都)に於いて撃(う)った。
因連與漢戰相距滎陽
因(よ)りてうちつづき漢と戦い、栄陽で相(あい)対峙(たいじ)した。
以故田復得收齊城邑立田榮子廣為齊王
故(ゆえ)を以って斉将田横はふたたび斉の城邑を収(おさ)めることを得た。故斉王田栄の子の田広を
立てて斉王と為し、
而相之專國政政無巨細皆斷於相
しこうして、斉将田横はこれを補佐し、国政を専(もっぱ)らにした。政治は巨細(大小)無く皆(みな)斉相国田横に於いて処断(しょだん)された。
定齊三年漢王使酈生往說下齊王廣及其相國
斉相国田横が斉を平定して三年、漢王劉邦は酈生(酈食其)をつかわし、斉王田広及びその相国田横を説(と)き下(くだ)しに往(ゆ)かせた。
以為然解其歷下軍
斉相国田横はその(説の)通りだと思い、その(斉の)歷下(地名)の軍を解(と)いた。
漢將韓信引兵且東擊齊
漢将韓信(漢相国大将軍韓信 (淮陰侯の方))は兵を引いてまさに斉を撃(う)ちに東に進まんとし、
齊初使華無傷田解軍於歷下以距漢
斉が初(はじ)め斉将華無傷軍、斉将田解軍を歷下につかわし漢と対峙(たいじ)するを以ってした。
漢使至乃罷守戰備縱酒且遣使與漢平
漢の使者(酈食其)が至り、そこで、守戦の備(そな)えを止(や)めて、大いに酒宴をし、まさに使者を遣(つか)わして漢と和平しようとした。
漢將韓信已平趙燕用蒯通計
漢将韓信(漢相国大将軍韓信)はすでに趙、燕を平定しおわり、蒯通の計(はか)りごとを用いて、
度平原襲破齊歷下軍因入臨淄
平原を渡(わた)り、斉の歷下軍を襲(おそ)い破(やぶ)り、因(よ)りて臨淄(斉の都)に入った。
齊王廣相怒以酈生賣己而亨酈生
斉王田広、斉相国田横は漢使酈生(酈食其)が己(おのれ)をあざむくを以ってしたと怒(おこ)り、しこうして、漢使酈生(酈食其)を烹刑にした。
齊王廣東走高密相走博(陽)
斉王田広は東に(斉の)高密に逃走し、斉相国田横は(済北の)博陽に逃走した。
守相田光走城陽將軍田既軍於膠東
斉守相田光は城陽に逃走し、斉将軍田既は膠東に於いて軍営をしいた。
楚使龍且救齊齊王與合軍高密
楚は楚将龍且をつかわし斉を救援させ、斉王田広はともに合わせて高密に軍営をしいた。
漢將韓信與曹參破殺龍且虜齊王廣
漢将韓信(漢相国大将軍韓信)は漢右丞相将軍曹参とともに楚将龍且を破(やぶ)り殺し、斉王田広を虜(とりこ)にした。
漢將灌嬰追得齊守相田光
漢将灌嬰は斉守相田光を追いかけてつかまえた。
至博(陽)而聞齊王死自立為齊王
(済北(斉地)の)博陽に至ると、しこうして、斉相国田横は斉王田広が死んだと聞き、自(みずか)ら立って斉王と為った。
還擊嬰嬰敗之軍於嬴下
漢将灌嬰を撃(う)ちに還(かえ)ると、漢将灌嬰は斉王田横の軍を嬴下に於いて敗(やぶ)った。
田亡走梁歸彭越彭越是時居梁地
斉王田横は逃げて梁に走り、建成侯魏相国彭越に帰属した。建成侯魏相国彭越はこの時、梁(魏)の地に居住しており、
中立且為漢且為楚
中立(ちゅうりつ)して、まさに漢の為(ため)にせんとし、まさに楚の為(ため)にせんとしていた。
韓信已殺龍且因令曹參進兵破殺田既於膠東
漢相国大将軍韓信がすでに楚将龍且を殺し、因(よ)りて漢右丞相将軍曹参に令(れい)して兵を進めて、斉将軍田既を膠東(斉地)に於いて破(やぶ)り殺させ、
使灌嬰破殺齊將田吸於千乘
漢将灌嬰をして斉将田吸を千乗に於いて破(やぶ)り殺させた。
韓信遂平齊乞自立為齊假王漢因而立之
漢相国大将軍韓信は遂(つい)に斉を平定し、自立して斉の仮(かり)の王に為ることを乞(こ)い、
漢は因(よ)りてこれを(斉王に)立てた。