韓信曰漢王遇我甚厚載我以其車
韓信曰漢王遇我甚厚載我以其車 斉王韓信曰く、「漢王(劉邦)は我(われ)を遇(ぐう)すること甚(はなは)だ厚(あつ)く、我(われ)を載(の)せるにその車を以ってし、 衣我以其衣食我以其食吾聞之 我(われ)を着せるにその衣(ころも)を以ってし、我(われ)に食べさせるにその食事を以ってしました。吾(われ)はこれを聞きます、 乘人之車者載人之患衣人之衣者懷人之憂...
View Article故臣以為足下必漢王之不危己亦誤矣
故臣以為足下必漢王之不危己亦誤矣 故(ゆえ)にわたしは足下(斉王韓信)がけっして漢王(劉邦)が己(おのれ)を危(あや)ぶまないとするのは、また誤(あやま)りだと為すを以ってするのです。 大夫種范蠡存亡越霸句踐 越大夫文種、范蠡の越での存亡(そんぼう)は、越王句踐を諸侯の旗頭(はたがしら)にし、 立功成名而身死亡野獸已盡而獵狗亨...
View Article後數日蒯通復說曰夫聽者事之候也
後數日蒯通復說曰夫聽者事之候也 数日後、蒯通はふたたび説(と)いた、曰く、「それ、聴き入れるとは、事(こと)のさぐりみることで、 計者事之機也聽過計失而能久安者鮮矣 計(はか)るとは、事(こと)のからくりであり、聴き入れることが過(あやま)って、計(はか)りごとが失敗すれば、久(ひさ)しく安(やす)んずることができることはまれでしょう。 聽不失一二者不可亂以言...
View Article此言貴能行之夫功者難成而易敗
此言貴能行之夫功者難成而易敗 これ、行うことができることを貴(とうと)ぶことを言っています。それ、功とは成(な)り難(がた)く敗(やぶ)れ易(やす)く、 時者難得而易失也時乎時不再來 時(とき)とは得がたくて失い易(やす)いです。時(とき)です、時(とき)は再び来ないのです。 願足下詳察之韓信猶豫不忍倍漢...
View Article項王亡將鐘離眛家在伊廬素與信善
項王亡將鐘離眛家在伊廬素與信善 項王(項羽)軍の亡将の鐘離眛の家は伊廬に在(あ)り、素(もと)より楚王韓信と仲が良かった。 項王死後亡歸信漢王怨眛聞其在楚 項王(項羽)の死後、逃げて楚王韓信に帰属した。漢王劉邦は鐘離眛を怨(うら)み、その楚にいることを聞き、 詔楚捕眛信初之國行縣邑陳兵出入 楚に鐘離眛を捕(と)らえるよう詔(みことのり)した。楚王韓信は国(楚)に行ったばかりのときで、...
View Article眛曰漢所以不擊取楚以眛在公所
眛曰漢所以不擊取楚以眛在公所 鐘離眛曰く、「漢の楚を撃(う)ち取らないわけは、わたしが公(楚王韓信)の所に在(あ)るを以ってするからです。 若欲捕我以自媚於漢吾今日死 なんじ(楚王韓信)が我(われ)を捕(と)らえ、自(みずか)らを漢に媚(こ)びるを以ってすることを欲すれば、吾(われ)は今日にも死にますが、 公亦隨手亡矣乃罵信曰公非長者...
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信嘗過樊將軍噲噲跪拜送迎 淮陰侯韓信が嘗(かつ)て樊將軍噲に立ち寄ったとき、樊將軍噲は送迎に跪(ひさまず)いて拝礼(はいれい)して、 言稱臣曰大王乃肯臨臣 臣(しん)を称(しょう)して言った、曰く、「大王(淮陰侯韓信)がなんとわたしのところへよくおいでくださいました」と。 信出門笑曰生乃與噲等為伍 淮陰侯韓信は門を出て笑って曰く、「生きてすなわち、なんじらと仲間に為った」と。...
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陳豨拜為鉅鹿守辭於淮陰侯 陳豨が官をさずけられて鉅鹿守(趙地)と為り、淮陰侯韓信に別れを告(つ)げた。 淮陰侯挈其手辟左右與之步於庭 淮陰侯韓信はその手をとり、左右の者をしりぞけて、これとともに庭を歩(ある)いた。 仰天嘆曰子可與言乎欲與子有言也...
View Article高祖已從豨軍來至
高祖已從豨軍來至見信死 漢高祖劉邦はすでに陳豨軍を従(したが)えて来て、至り、淮陰侯韓信の死をみとめた。 且喜且憐之問信死亦何言 且(か)つ喜び、且(か)つこれを憐(あわ)れみ、問(と)うた、「韓信が死ぬとき、また何を言ったか?」と。 呂后曰信言恨不用蒯通計 漢呂后曰く、「韓信は蒯通の計(はか)りごとを用いなかったことを恨(うら)めしく思うと言いました」と。 高祖曰是齊辯士也...
View Article太史公曰吾如淮陰淮陰人為余言
太史公曰吾如淮陰淮陰人為余言 太史公曰く、「吾(われ)は淮陰に行き、淮陰人がわたしの為(ため)に言った、 韓信雖為布衣時其志與眾異 韓信は官位の無かった時と雖(いえど)も、その志(こころざし)は衆人と異(こと)なっていた。 其母死貧無以葬然乃行營高敞地 その母が死んだとき、貧しく葬式を以ってすることが無かったが、然(しか)るに、高くてひろびろとした地に行って(墓を)営(いとな)み、...
View Article史記 韓信盧綰列伝 始め
韓王信者故韓襄王孽孫也長八尺五寸 韓王信という者は、旧韓の襄王韓倉の妾腹(めかけばら)の孫(まご)で、身長が八尺五寸あった。 及項梁之立楚後懷王也燕齊趙魏皆已前王 楚将項梁の楚の子孫の楚懐王熊心を立てるに及び、燕、斉、趙、魏は皆(みな)すでに前(さき)に王を立て、 唯韓無有後故立韓諸公子陽君成為韓王...
View Article漢二年韓信略定韓十餘城
漢二年韓信略定韓十餘城 漢二年、韓太尉韓信は韓の十余の城邑を略定した。 漢王至河南韓信急擊韓王昌陽城 漢王劉邦が河南に至り、韓太尉韓信は韓王鄭昌の陽城を急襲(きゅうしゅう)した。 昌降漢王乃立韓信為韓王常將韓兵從 韓王鄭昌は降(くだ)り、漢王劉邦はそこで韓太尉韓信を立てて韓王と為し、常(つね)に韓兵を率(ひき)いさせて従(したが)わせた。 三年漢王出滎陽韓王信周苛等守滎陽...
View Article七年冬上自往擊破信軍銅鞮
七年冬上自往擊破信軍銅鞮斬其將王喜 漢七年冬、上(劉邦)は自(みずか)ら撃(う)ちに往(ゆ)き、韓王韓信軍を銅鞮で破(やぶ)り、 その将軍王喜を斬った。 信亡走匈奴(與)其與白土人曼丘臣 韓王韓信は匈奴(きょうど)に逃げ走り、その白土人の曼丘臣、 王黃等立趙苗裔趙利為王復收信敗散兵...
View Article漢十年信令王黃等說誤陳豨
漢十年信令王黃等說誤陳豨 漢十年、韓信は王黄らに令(れい)し(鉅鹿守(趙地)の)陳豨を誤(あやま)らせようと説(と)かせた。 十一年春故韓王信復與胡騎入居參合距漢 漢十一年春、元韓王韓信はふたたび胡騎とともに参合に入り居(きょ)し、漢と対峙(たいじ)した。 漢使柴將軍擊之遺信書曰 漢は柴將軍をつかわしこれを撃(う)たせ、韓信に書状を送って曰く、 陛下仁諸侯雖有畔亡而復歸...
View Article信之入匈奴與太子俱
信之入匈奴與太子俱 韓信の匈奴に入るは太子とともに連れ立って、 及至穨當城生子因名曰穨當穨当城に至るに及(およ)んで、子を生(う)み、因(よ)りて名は穨当といった。 韓太子亦生子命曰嬰 韓太子もまた子を生み、命名して嬰といった。 至孝文十四年穨當及嬰率其眾降漢 漢孝文帝十四年、韓穨当及び韓嬰はその衆を率(ひき)いて漢に降(くだ)った。 漢封穨當為弓高侯嬰為襄城侯...
View Article盧綰者豐人也與高祖同里
盧綰者豐人也與高祖同里 盧綰という者は豐人であり、漢高祖劉邦と同じ里である。 盧綰親與高祖太上皇相愛 盧綰の親は漢高祖劉邦の太上皇(父)と互いに仲が良く、 及生男高祖盧綰同日生 男の子を生むに及(およ)んで、漢高祖劉邦、盧綰は同じ日に生まれ、 里中持羊酒賀兩家及高祖盧綰壯...
View Article漢五年冬以破項籍乃使盧綰別將
漢五年冬以破項籍乃使盧綰別將 漢五年冬、項籍(項羽)を破(やぶ)るを以って、すなわち漢太尉長安侯盧綰をして率(ひき)いるを別(わ)けさせ、 與劉賈擊臨江王共尉破之 漢将劉賈とともに臨江王共尉(楚義帝熊心の相国共敖の子)を撃(う)ち、これを破(やぶ)った。 七月還從擊燕王臧荼臧荼降 漢五年七月、還(かえ)り、燕王臧荼(もと燕将)を撃(う)ちに従(したが)い、燕王臧荼は降(くだ)った。...
View Article漢十二年東擊黥布豨常將兵居代漢使樊噲擊斬豨
漢十二年東擊黥布豨常將兵居代漢使樊噲擊斬豨 漢十二年、黥布(淮南王英布)を撃(う)ちに東へ進み、鉅鹿守陳豨は常(つね)に兵を率(ひき)いて 代に居(お)り、漢は樊噲をつかわし鉅鹿守陳豨を撃(う)ち斬った。 其裨將降言燕王綰使范齊通計謀於豨所 その(鉅鹿守陳豨の)副将が(漢に)降(くだ)り、燕王盧綰が范斉をつかわして鉅鹿守陳豨の所に於いて計謀を通(かよ)わせたと言った。 高祖使使召盧綰綰稱病...
View Article豨常告歸過趙
豨常告歸過趙趙相周昌見豨賓客隨之者千餘乘 鉅鹿守陳豨は常(つね)に告帰(官吏が吉事のために休暇を願い出て故郷に帰る)のとき、趙に立ち寄り、趙相周昌(汾陰悼侯、元漢御史大夫)は鉅鹿守陳豨の賓客(ひんきゃく)のこれに附き従った者、千余台の車で、 邯鄲官舍皆滿豨所以待賓客布衣交皆出客下...
View Article四人謁上謾罵曰豎子能為將乎
四人謁上謾罵曰豎子能為將乎 四人が謁見(えっけん)すると、上(劉邦)はあなどり罵(ののし)って曰く、「小僧らは将軍に為ることができるのか?」と。 四人慚伏上封之各千戶以為將 四人は恥じ入って伏(ふ)した。上(劉邦)はこれに各(おのおの)一千戸を封じ将軍と為すを以ってした。 左右諫曰從入蜀漢伐楚 左右の者は諌(いさ)めて曰く、「蜀、漢に入ってより、楚を討(う)ち、 功未遍行今此何功而封...
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