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豨常告歸過趙

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豨常告歸過趙趙相周昌見豨賓客隨之者千餘乘

鉅鹿守陳豨は常(つね)に告帰(官吏が吉事のために休暇を願い出て故郷に帰る)のとき、趙に立ち寄り、趙相周昌(汾陰悼侯、元漢御史大夫)は鉅鹿守陳豨の賓客(ひんきゃく)のこれに附き従った者、千余台の車で、

邯鄲官舍皆滿豨所以待賓客布衣交皆出客下

邯鄲(趙の都)の官舎は皆いっぱいに満たされたのを見た。鉅鹿守陳豨が賓客(ひんきゃく)を侍(はべ)らせるを以ってするは布衣(ふい)の交(まじ)わり(身分や財産をきにかけない交際)をし、(鉅鹿守陳豨は)皆(みな)賓客(ひんきゃく)の下(した)に出(で)た。

豨還之代周昌乃求入見見上

鉅鹿守陳豨は還(かえ)って代に行き、趙相周昌はそこで入見を求(もと)めた。上(劉邦)に見(まみ)え、

具言豨賓客盛甚擅兵於外數歲恐有變

鉅鹿守陳豨の賓客(ひんきゃく)の盛んなること甚(はなは)だしく、外(そと)に於いて数年、兵を思うままにしており、恐(おそ)らく変事が有ることでしょう、とつぶさに言上した。

上乃令人覆案豨客居代者財物諸不法事多連引豨。

上(劉邦)はそこで人に令(れい)して鉅鹿守陳豨の賓客(ひんきゃく)の代に居(お)る者をくりかえし調べさせ、財物、諸(もろもろ)の不法事は多くが鉅鹿守陳豨に関連していた。

豨恐陰令客通使王黃曼丘臣所

鉅鹿守陳豨は恐(おそ)れ、ひそかに客(きゃく)に令(れい)して王黄、曼丘臣の所に使(つか)いしに通(かよ)わせた。

及高祖十年七月太上皇崩使人召豨豨稱病甚

漢高祖十年七月に及んで、漢太上皇(劉邦の父)が崩じ、人をして鉅鹿守陳豨を召し寄せさせたが、鉅鹿守陳豨は病(やまい)が甚(はなは)だしいと称(しょう)した。

九月遂與王黃等反自立為代王劫略趙代

漢高祖十年九月、遂(つい)に王黄らとともに反乱し、自(みずか)ら立って代王と為り、趙、代をおどして略取した。

上聞乃赦趙代吏人為豨所詿誤劫略者皆赦之

上(劉邦)は聞くと、すなわち、趙、代の役人を赦(ゆる)し、鉅鹿守陳豨(自称代王陳豨)がまちがえ誤(あやま)らせた所と為っておどし略取した者は皆(みな)赦(ゆる)された。

上自往至邯鄲喜曰

上(劉邦)は自(みずか)ら往(ゆ)き、邯鄲に至ると、喜んで曰く、

豨不南據漳水北守邯鄲知其無能為也

「鉅鹿守陳豨(自称代王陳豨)は、漳水が北に邯鄲を守ることに拠(よ)って南に進まず、その為すことができないのを知るのである」と。

趙相奏斬常山守尉曰

趙相周昌は常山守、常山尉を斬ることを申し上げて曰く、

常山二十五城豨反亡其二十城

「常山の二十五の城邑は、鉅鹿守陳豨(自称代王陳豨)が反乱してその二十の城邑を亡くしました」と。

上問曰守尉反乎對曰

上(劉邦)は問(と)うて曰く、「常山守、常山尉が叛(そむ)いたのか?」と。応(こた)えて曰く、

不反上曰是力不足也赦之

「叛(そむ)いていません」と。上(劉邦)曰く、「これは力が足(た)らなかったのである」と、これを赦(ゆる)し、

復以為常山守尉上問周昌曰

ふたたび常山守、常山尉と為すを以ってした。上(劉邦)は趙相周昌に問(と)うた、曰く、

趙亦有壯士可令將者乎對曰有四人

「趙もまた兵を率(ひき)いさせることができる壮士の者は有るか?」と。応(こた)えて曰く、
「四人おります」と。

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