漢十二年東擊黥布豨常將兵居代漢使樊噲擊斬豨
漢十二年、黥布(淮南王英布)を撃(う)ちに東へ進み、鉅鹿守陳豨は常(つね)に兵を率(ひき)いて
代に居(お)り、漢は樊噲をつかわし鉅鹿守陳豨を撃(う)ち斬った。
其裨將降言燕王綰使范齊通計謀於豨所
その(鉅鹿守陳豨の)副将が(漢に)降(くだ)り、燕王盧綰が范斉をつかわして鉅鹿守陳豨の所に於いて計謀を通(かよ)わせたと言った。
高祖使使召盧綰綰稱病
漢高祖劉邦は使者をつかわして燕王盧綰を召し寄せさせたが、燕王盧綰は病(やまい)と称した。
上又使辟陽侯審食其御史大夫趙堯往迎燕王
上(劉邦)はまた辟陽侯審食其、漢御史大夫趙堯をつかわし、燕王盧綰を迎(むか)えに往(ゆ)かせた。
因驗問左右綰愈恐閉匿謂其幸臣曰
因(よ)りて取調べて左右の者に問(と)うた。燕王盧綰は愈々(いよいよ)恐(おそ)れ、閉ざして隠(かく)れ、その幸臣に謂(い)った、曰く、
非劉氏而王獨我與長沙耳
「劉氏で非(あら)ずして王になっているのは、ただ我(われ)と長沙だけだ。
往年春漢族淮陰夏誅彭越皆呂后計
往年(漢十一年)春、漢は淮陰侯韓信を族刑にし、夏、梁王彭越を誅し、皆(みな)呂后(劉邦の妻)の計(はか)りごとだ。
今上病屬任呂后呂后婦人
今、上(劉邦)は病(やまい)で、呂后(劉邦の妻)にまかせている。呂后(劉邦の妻)婦人は、
專欲以事誅異姓王者及大功臣
専(もっぱ)ら、異姓の王者及び大功のある臣下を誅(ちゅう)するを事(こと)とするを以って欲している」と。
乃遂稱病不行其左右皆亡匿
そこで、遂(つい)に病(やまい)を称して行かなかった。その左右の者は皆(みな)逃げ隠(かく)れた。
語頗泄辟陽侯聞之歸具報上上益怒
話しは頗(すこぶ)る漏(も)れて、辟陽侯審食其はこれを聞き、帰ってつぶさに上(劉邦)に報告した。上(劉邦)はますます怒(おこ)った。
又得匈奴降者降者言張勝亡在匈奴為燕使
また、匈奴の降(くだ)った者をつかまえ、降(くだ)った者は燕使者張勝が逃げて匈奴に在(あ)り、
燕使者と為っていると言った。
於是上曰盧綰果反矣使樊噲擊燕
ここに於いて上(劉邦)曰く、「燕王盧綰は果(は)たして叛(そむ)いたのか」と。漢将樊噲をつかわし燕を撃(う)たせた。
燕王綰悉將其宮人家屬騎數千居長城下
燕王盧綰はことごとくその宮人、家属、騎兵数千を率(ひき)いて長城下に居(お)り、
侯伺幸上病愈自入謝四月高祖崩
幸いにも上(劉邦)の病(やまい)が癒(い)えたら、自(みずか)ら入って謝(しゃ)することをうかがった。漢十二年四月、漢高祖劉邦が崩(ほう)じた。
盧綰遂將其眾亡入匈奴匈奴以為東胡盧王
燕王盧綰は遂(つい)にその衆を率(ひき)いて逃げ匈奴に入った。匈奴は東胡の盧王と為すを以ってした。
綰為蠻夷所侵奪常思復歸居歲餘死胡中
東胡王盧綰は蛮夷(ばんい)が侵(おか)し奪(うば)う所と為って、常(つね)にふたたび(漢に)帰ることを思った。居(お)ること一年余り、胡(匈奴)の中で死んだ。
高后時盧綰妻子亡降漢會高后病
漢高后(呂后)の時、東胡王盧綰の妻子が逃げて漢に降(くだ)った。この時漢高后(呂后)は病(やまい)で、
不能見舍燕邸為欲置酒見之
見(まみ)えることができず、燕の邸舎(ていしゃ)に泊(と)めて、酒宴をしてこれに見(まみ)えたいと思った。
高祖竟崩不得見盧綰妻亦病死
漢高后(高祖=高后?)がとうとう崩(ほう)じ、見(まみ)えることを得られなかった。東胡王盧綰の妻もまた病死した。
孝景中六年盧綰孫他之
漢孝景帝中の六年、東胡王盧綰の孫(まご)の盧他之(或いは盧他?)は、
以東胡王降封為亞谷侯
東胡王を以って(漢に)降(くだ)り、封ぜられて亞谷侯と為った。
陳豨者宛朐人也不知始所以得從
陳豨という者は宛朐人であり、従(したが)うを得るを以ってした所の始(はじ)めは知らない。
及高祖七年冬韓王信反入匈奴
漢高祖七年冬に及んで、韓王韓信が叛(そむ)き匈奴に入り、
上至平城還乃封豨為列侯以趙相國將監趙代邊兵邊兵皆屬焉
上(劉邦)は平城に至(いた)って還(かえ)り、すなわち、陽夏侯陳豨(漢五年、燕王臧荼を破って陽夏侯に封ぜられる)を封じて列侯(鉅鹿守)と為し、趙の相国を以って趙、代の国境地帯の兵を率(ひき)い監督し、国境地帯の兵は皆(みな)属(ぞく)した。
漢十二年、黥布(淮南王英布)を撃(う)ちに東へ進み、鉅鹿守陳豨は常(つね)に兵を率(ひき)いて
代に居(お)り、漢は樊噲をつかわし鉅鹿守陳豨を撃(う)ち斬った。
其裨將降言燕王綰使范齊通計謀於豨所
その(鉅鹿守陳豨の)副将が(漢に)降(くだ)り、燕王盧綰が范斉をつかわして鉅鹿守陳豨の所に於いて計謀を通(かよ)わせたと言った。
高祖使使召盧綰綰稱病
漢高祖劉邦は使者をつかわして燕王盧綰を召し寄せさせたが、燕王盧綰は病(やまい)と称した。
上又使辟陽侯審食其御史大夫趙堯往迎燕王
上(劉邦)はまた辟陽侯審食其、漢御史大夫趙堯をつかわし、燕王盧綰を迎(むか)えに往(ゆ)かせた。
因驗問左右綰愈恐閉匿謂其幸臣曰
因(よ)りて取調べて左右の者に問(と)うた。燕王盧綰は愈々(いよいよ)恐(おそ)れ、閉ざして隠(かく)れ、その幸臣に謂(い)った、曰く、
非劉氏而王獨我與長沙耳
「劉氏で非(あら)ずして王になっているのは、ただ我(われ)と長沙だけだ。
往年春漢族淮陰夏誅彭越皆呂后計
往年(漢十一年)春、漢は淮陰侯韓信を族刑にし、夏、梁王彭越を誅し、皆(みな)呂后(劉邦の妻)の計(はか)りごとだ。
今上病屬任呂后呂后婦人
今、上(劉邦)は病(やまい)で、呂后(劉邦の妻)にまかせている。呂后(劉邦の妻)婦人は、
專欲以事誅異姓王者及大功臣
専(もっぱ)ら、異姓の王者及び大功のある臣下を誅(ちゅう)するを事(こと)とするを以って欲している」と。
乃遂稱病不行其左右皆亡匿
そこで、遂(つい)に病(やまい)を称して行かなかった。その左右の者は皆(みな)逃げ隠(かく)れた。
語頗泄辟陽侯聞之歸具報上上益怒
話しは頗(すこぶ)る漏(も)れて、辟陽侯審食其はこれを聞き、帰ってつぶさに上(劉邦)に報告した。上(劉邦)はますます怒(おこ)った。
又得匈奴降者降者言張勝亡在匈奴為燕使
また、匈奴の降(くだ)った者をつかまえ、降(くだ)った者は燕使者張勝が逃げて匈奴に在(あ)り、
燕使者と為っていると言った。
於是上曰盧綰果反矣使樊噲擊燕
ここに於いて上(劉邦)曰く、「燕王盧綰は果(は)たして叛(そむ)いたのか」と。漢将樊噲をつかわし燕を撃(う)たせた。
燕王綰悉將其宮人家屬騎數千居長城下
燕王盧綰はことごとくその宮人、家属、騎兵数千を率(ひき)いて長城下に居(お)り、
侯伺幸上病愈自入謝四月高祖崩
幸いにも上(劉邦)の病(やまい)が癒(い)えたら、自(みずか)ら入って謝(しゃ)することをうかがった。漢十二年四月、漢高祖劉邦が崩(ほう)じた。
盧綰遂將其眾亡入匈奴匈奴以為東胡盧王
燕王盧綰は遂(つい)にその衆を率(ひき)いて逃げ匈奴に入った。匈奴は東胡の盧王と為すを以ってした。
綰為蠻夷所侵奪常思復歸居歲餘死胡中
東胡王盧綰は蛮夷(ばんい)が侵(おか)し奪(うば)う所と為って、常(つね)にふたたび(漢に)帰ることを思った。居(お)ること一年余り、胡(匈奴)の中で死んだ。
高后時盧綰妻子亡降漢會高后病
漢高后(呂后)の時、東胡王盧綰の妻子が逃げて漢に降(くだ)った。この時漢高后(呂后)は病(やまい)で、
不能見舍燕邸為欲置酒見之
見(まみ)えることができず、燕の邸舎(ていしゃ)に泊(と)めて、酒宴をしてこれに見(まみ)えたいと思った。
高祖竟崩不得見盧綰妻亦病死
漢高后(高祖=高后?)がとうとう崩(ほう)じ、見(まみ)えることを得られなかった。東胡王盧綰の妻もまた病死した。
孝景中六年盧綰孫他之
漢孝景帝中の六年、東胡王盧綰の孫(まご)の盧他之(或いは盧他?)は、
以東胡王降封為亞谷侯
東胡王を以って(漢に)降(くだ)り、封ぜられて亞谷侯と為った。
陳豨者宛朐人也不知始所以得從
陳豨という者は宛朐人であり、従(したが)うを得るを以ってした所の始(はじ)めは知らない。
及高祖七年冬韓王信反入匈奴
漢高祖七年冬に及んで、韓王韓信が叛(そむ)き匈奴に入り、
上至平城還乃封豨為列侯以趙相國將監趙代邊兵邊兵皆屬焉
上(劉邦)は平城に至(いた)って還(かえ)り、すなわち、陽夏侯陳豨(漢五年、燕王臧荼を破って陽夏侯に封ぜられる)を封じて列侯(鉅鹿守)と為し、趙の相国を以って趙、代の国境地帯の兵を率(ひき)い監督し、国境地帯の兵は皆(みな)属(ぞく)した。