信之入匈奴與太子俱
韓信の匈奴に入るは太子とともに連れ立って、
及至穨當城生子因名曰穨當
穨当城に至るに及(およ)んで、子を生(う)み、因(よ)りて名は穨当といった。
韓太子亦生子命曰嬰
韓太子もまた子を生み、命名して嬰といった。
至孝文十四年穨當及嬰率其眾降漢
漢孝文帝十四年、韓穨当及び韓嬰はその衆を率(ひき)いて漢に降(くだ)った。
漢封穨當為弓高侯嬰為襄城侯
漢は韓穨当を封じて弓高侯と為し、韓嬰を封じて襄城侯と為した。
吳楚軍時弓高侯功冠諸將
呉楚七国の乱の時、弓高侯韓穨当の功績(こうせき)は諸侯に冠(かん)した。
傳子至孫孫無子失侯
子に伝え孫に至ると、孫には子が無く、侯位を失(うしな)った。
嬰孫以不敬失侯穨當孽孫韓嫣貴幸
襄城侯韓嬰の孫は不敬(ふけい)罪を以って侯位を失(うしな)った。弓高侯韓穨当の妾腹の孫(まご)の韓嫣は貴(とうと)ばれ寵愛され、
名富顯於當世其弟說再封
名声、富(とみ)は当時の世に於いて顕(あきら)かになった。その弟の韓説は二度封ぜられ、
數稱將軍卒為案道侯
たびたび将軍を称(たた)えられて、とうとう案道侯と為った。
子代歲餘坐法死後歲餘
子の韓代は一年余りして法(ほう)にとわれて死んだ。一年余り後(のち)、
說孫曾拜為龍頟侯續說後
案道侯韓説の孫(まご)の韓曾が官をさずけられて龍頟侯と為り、案道侯韓説の後継(こうけい)を続けた。
韓信の匈奴に入るは太子とともに連れ立って、
及至穨當城生子因名曰穨當
穨当城に至るに及(およ)んで、子を生(う)み、因(よ)りて名は穨当といった。
韓太子亦生子命曰嬰
韓太子もまた子を生み、命名して嬰といった。
至孝文十四年穨當及嬰率其眾降漢
漢孝文帝十四年、韓穨当及び韓嬰はその衆を率(ひき)いて漢に降(くだ)った。
漢封穨當為弓高侯嬰為襄城侯
漢は韓穨当を封じて弓高侯と為し、韓嬰を封じて襄城侯と為した。
吳楚軍時弓高侯功冠諸將
呉楚七国の乱の時、弓高侯韓穨当の功績(こうせき)は諸侯に冠(かん)した。
傳子至孫孫無子失侯
子に伝え孫に至ると、孫には子が無く、侯位を失(うしな)った。
嬰孫以不敬失侯穨當孽孫韓嫣貴幸
襄城侯韓嬰の孫は不敬(ふけい)罪を以って侯位を失(うしな)った。弓高侯韓穨当の妾腹の孫(まご)の韓嫣は貴(とうと)ばれ寵愛され、
名富顯於當世其弟說再封
名声、富(とみ)は当時の世に於いて顕(あきら)かになった。その弟の韓説は二度封ぜられ、
數稱將軍卒為案道侯
たびたび将軍を称(たた)えられて、とうとう案道侯と為った。
子代歲餘坐法死後歲餘
子の韓代は一年余りして法(ほう)にとわれて死んだ。一年余り後(のち)、
說孫曾拜為龍頟侯續說後
案道侯韓説の孫(まご)の韓曾が官をさずけられて龍頟侯と為り、案道侯韓説の後継(こうけい)を続けた。