魯王好獵相常從入苑中
魯王劉余は猟(りょう)を好(この)み、魯相田叔が常(つね)に苑の中に入るに従(したが)った。
王輒休相就館舍相出常暴坐待王苑外
魯王劉余はそのたびごとに魯相田叔を休(やす)ませ館舎に就(つ)かせたが、魯相田叔は出て、常(つね)に雨風にあたりながら座(すわ)って、魯王劉余を苑の外で待(ま)った。
王數使人請相休終不休曰
魯王劉余はたびたび人をつかわして魯相田叔に休むように請(こ)わせたが、終いまで休まなかった、曰く、
我王暴露苑中我獨何為就舍
「我(わ)が王が苑の中で雨風にさらされているのに、我(われ)がひとりどうして館舎に就(つ)けるだろうか」と。
魯王以故不大出游
魯王劉余は故(ゆえ)を以って大いに遊びに出なくなった。
數年叔以官卒魯以百金祠
数年して、魯相田叔は官を以って亡くなった。魯は百金を以って祭祀(さいし)しようとしたが、
少子仁不受也曰不以百金傷先人名
末子の田仁は授(さず)からなかったのである、曰く、「百金を以って先人の名を傷(きず)つけられない」と。
仁以壯健為衛將軍舍人數從擊匈奴
田仁は壮健(そうけん)を以って衛将軍の舎人と為り、たびたび匈奴を撃つに従(したが)った。
衛將軍進言仁仁為郎中數歲
衛将軍は田仁を進言(しんげん)して、田仁は漢郎中に為った。数年して、
為二千石丞相長史失官其後使刺舉三河
二千石丞相長史と為って、宮仕えを失(うしな)った。その後、三河を挙(あ)げて罪を調べさしめた。
上東巡仁奏事有辭上說
上(漢孝武帝劉徹)は東に巡行し、田仁は事を奏上して言葉が有り、上(漢孝武帝劉徹)は悦(よろこ)び、
拜為京輔都尉月餘上遷拜為司直
官をさずけて漢京輔都尉と為した。一ヶ月余りして、上(漢孝武帝劉徹)は遷(うつ)して官をさずけて漢司直と為した。
數歲坐太子事時左相自將兵
数年して、漢太子劉拠の事に罪を問われた。この時、漢左丞相劉屈氂が自ら兵を率(ひき)い、
令司直田仁主閉守城門坐縱太子下吏誅死
漢司直田仁に令して、城門を閉(と)ざして守ることをつかさどらせたが、(田仁は)漢太子劉拠を放(はな)ち、罪を問われた。役人に下(くだ)して誅死させようとしたので、
仁發兵長陵令車千秋上變仁
漢司直田仁は兵を発し、長陵令車千秋が漢司直田仁の変事を申し上げ、
仁族死陘城今在中山國
漢司直田仁の一族は死んだ。陘城は今、中山国に在(あ)る。
太史公曰孔子稱曰居是國必聞其政
太史公曰く、「孔子が称(たた)えて曰く、この国に居(お)れば必ずその政治を聞く、と。
田叔之謂乎義不忘賢明主之美以救過
田叔のことを謂(い)うのだろうか。義(ぎ)として賢明(けんめい)な主(あるじ)の美(び)を忘(わす)れず、過(あやま)ちを救(すく)うを以ってした。
仁與余善余故并論之
田仁はわたしと仲が善(よ)く、わたしは故(ゆえ)に併(あわ)せてこれを論じた」と。
褚先生曰臣為郎時聞之曰田仁故與任安相善
褚先生曰く、「わたしが郎に為っていた時、これを聞いた、曰く、田仁は以前、任安と相(あい)仲良くしていたと。
任安滎陽人也少孤貧困
任安は栄陽の人である。若くして親がなくなり貧困(ひんこん)になり、
為人將車之長安留求事為小吏
人の為(ため)に車を率(ひき)いて長安に行き、留(とど)まって、小役人に為って仕(つか)えることを求めたが、
未有因緣也因占著名數
未(ま)だ手づるを有(ゆう)さないうちに、占(うらな)いに因(よ)りて、戸籍(こせき)を明らかにし、
武功扶風西界小邑也谷口蜀道近山
武功(地名)は扶風(地方名)の西の境界の小さな邑(むら)であり、谷口は蜀につながる道で山に近いと。
安以為武功小邑無豪易高也
任安は武功は小さい邑(むら)で、豪傑(ごうけつ)がおらず、身分が高くなり易(やす)いと思った。
安留代人為求盜亭父
任安は留(とど)まって人に代(か)わって、求盜亭父と為った。
後為亭長邑中人民俱出獵
後に亭長と為った。邑中の人民がともに猟(りょう)に出て、
任安常為人分麋鹿雉兔部署老小當壯劇易處
武功亭長任安は常(つね)に人の為(ため)に麋(おおじか)、鹿(しか)、雉(きじ)、兔(うさぎ)を分(わ)けて、老人子供、壮年に当たる者をきびしい処(ところ)、容易(ようい)な処(ところ)に振り分けた。
眾人皆喜曰無傷也
衆人は皆(みな)喜び曰く、「けがをすることが無かったのは、
任少卿分別平有智略明日復合會會者數百人
任少卿(任安)が公平に区分し智略(ちりゃく)が有ったからだ」と。明くる日、ふたたび会合し、集まった者は数百人。
任少卿曰某子甲何為不來乎
任任少卿(任安)曰く、「某(なにがし)の子の甲はどうして来ないのか?」と。
諸人皆怪其見之疾也其後除為三老
諸(もろもろ)の人々は皆(みな)その見分けることの速(はや)さをすごいと思った。その後、除(じょ)されて三老に為り、
舉為親民出為三百石長治民
挙(あ)げられて親民と為り、出世して三百石長と為り、民を治(おさ)めた。
坐上行出游共帳不辦斥免
上(漢孝武帝劉徹)が巡遊(じゅんゆう)に出かけて帳(とばり)を共(とも)にしたとき無調法(ぶちょうほう)があったのを罪に問われ、しりぞけられ免(めん)ぜられた。
魯王劉余は猟(りょう)を好(この)み、魯相田叔が常(つね)に苑の中に入るに従(したが)った。
王輒休相就館舍相出常暴坐待王苑外
魯王劉余はそのたびごとに魯相田叔を休(やす)ませ館舎に就(つ)かせたが、魯相田叔は出て、常(つね)に雨風にあたりながら座(すわ)って、魯王劉余を苑の外で待(ま)った。
王數使人請相休終不休曰
魯王劉余はたびたび人をつかわして魯相田叔に休むように請(こ)わせたが、終いまで休まなかった、曰く、
我王暴露苑中我獨何為就舍
「我(わ)が王が苑の中で雨風にさらされているのに、我(われ)がひとりどうして館舎に就(つ)けるだろうか」と。
魯王以故不大出游
魯王劉余は故(ゆえ)を以って大いに遊びに出なくなった。
數年叔以官卒魯以百金祠
数年して、魯相田叔は官を以って亡くなった。魯は百金を以って祭祀(さいし)しようとしたが、
少子仁不受也曰不以百金傷先人名
末子の田仁は授(さず)からなかったのである、曰く、「百金を以って先人の名を傷(きず)つけられない」と。
仁以壯健為衛將軍舍人數從擊匈奴
田仁は壮健(そうけん)を以って衛将軍の舎人と為り、たびたび匈奴を撃つに従(したが)った。
衛將軍進言仁仁為郎中數歲
衛将軍は田仁を進言(しんげん)して、田仁は漢郎中に為った。数年して、
為二千石丞相長史失官其後使刺舉三河
二千石丞相長史と為って、宮仕えを失(うしな)った。その後、三河を挙(あ)げて罪を調べさしめた。
上東巡仁奏事有辭上說
上(漢孝武帝劉徹)は東に巡行し、田仁は事を奏上して言葉が有り、上(漢孝武帝劉徹)は悦(よろこ)び、
拜為京輔都尉月餘上遷拜為司直
官をさずけて漢京輔都尉と為した。一ヶ月余りして、上(漢孝武帝劉徹)は遷(うつ)して官をさずけて漢司直と為した。
數歲坐太子事時左相自將兵
数年して、漢太子劉拠の事に罪を問われた。この時、漢左丞相劉屈氂が自ら兵を率(ひき)い、
令司直田仁主閉守城門坐縱太子下吏誅死
漢司直田仁に令して、城門を閉(と)ざして守ることをつかさどらせたが、(田仁は)漢太子劉拠を放(はな)ち、罪を問われた。役人に下(くだ)して誅死させようとしたので、
仁發兵長陵令車千秋上變仁
漢司直田仁は兵を発し、長陵令車千秋が漢司直田仁の変事を申し上げ、
仁族死陘城今在中山國
漢司直田仁の一族は死んだ。陘城は今、中山国に在(あ)る。
太史公曰孔子稱曰居是國必聞其政
太史公曰く、「孔子が称(たた)えて曰く、この国に居(お)れば必ずその政治を聞く、と。
田叔之謂乎義不忘賢明主之美以救過
田叔のことを謂(い)うのだろうか。義(ぎ)として賢明(けんめい)な主(あるじ)の美(び)を忘(わす)れず、過(あやま)ちを救(すく)うを以ってした。
仁與余善余故并論之
田仁はわたしと仲が善(よ)く、わたしは故(ゆえ)に併(あわ)せてこれを論じた」と。
褚先生曰臣為郎時聞之曰田仁故與任安相善
褚先生曰く、「わたしが郎に為っていた時、これを聞いた、曰く、田仁は以前、任安と相(あい)仲良くしていたと。
任安滎陽人也少孤貧困
任安は栄陽の人である。若くして親がなくなり貧困(ひんこん)になり、
為人將車之長安留求事為小吏
人の為(ため)に車を率(ひき)いて長安に行き、留(とど)まって、小役人に為って仕(つか)えることを求めたが、
未有因緣也因占著名數
未(ま)だ手づるを有(ゆう)さないうちに、占(うらな)いに因(よ)りて、戸籍(こせき)を明らかにし、
武功扶風西界小邑也谷口蜀道近山
武功(地名)は扶風(地方名)の西の境界の小さな邑(むら)であり、谷口は蜀につながる道で山に近いと。
安以為武功小邑無豪易高也
任安は武功は小さい邑(むら)で、豪傑(ごうけつ)がおらず、身分が高くなり易(やす)いと思った。
安留代人為求盜亭父
任安は留(とど)まって人に代(か)わって、求盜亭父と為った。
後為亭長邑中人民俱出獵
後に亭長と為った。邑中の人民がともに猟(りょう)に出て、
任安常為人分麋鹿雉兔部署老小當壯劇易處
武功亭長任安は常(つね)に人の為(ため)に麋(おおじか)、鹿(しか)、雉(きじ)、兔(うさぎ)を分(わ)けて、老人子供、壮年に当たる者をきびしい処(ところ)、容易(ようい)な処(ところ)に振り分けた。
眾人皆喜曰無傷也
衆人は皆(みな)喜び曰く、「けがをすることが無かったのは、
任少卿分別平有智略明日復合會會者數百人
任少卿(任安)が公平に区分し智略(ちりゃく)が有ったからだ」と。明くる日、ふたたび会合し、集まった者は数百人。
任少卿曰某子甲何為不來乎
任任少卿(任安)曰く、「某(なにがし)の子の甲はどうして来ないのか?」と。
諸人皆怪其見之疾也其後除為三老
諸(もろもろ)の人々は皆(みな)その見分けることの速(はや)さをすごいと思った。その後、除(じょ)されて三老に為り、
舉為親民出為三百石長治民
挙(あ)げられて親民と為り、出世して三百石長と為り、民を治(おさ)めた。
坐上行出游共帳不辦斥免
上(漢孝武帝劉徹)が巡遊(じゅんゆう)に出かけて帳(とばり)を共(とも)にしたとき無調法(ぶちょうほう)があったのを罪に問われ、しりぞけられ免(めん)ぜられた。