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其後用任安為益州刺史

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其後用任安為益州刺史以田仁為丞相長史

その後、任安を用いて益州刺史と為し、田仁を以って漢丞相長史と為した。

田仁上書言天下郡太守多為姦利

漢丞相長史田仁は上書して曰く、「天下の郡太守は多くが不正の利(り)を為しています。

三河尤甚臣請先刺舉三河

三河(河南、河内、河東)が尤(もっと)も甚(はなは)だしく、わたしは先(さき)に三河を挙(あ)げて罪を調べることを請(こ)い願います。

三河太守皆內倚中貴人與三公有親屬

三河の太守は皆(みな)内(うち)に中貴人(天子のおそばで寵愛される地位の高い臣)をたのみにしており、三公と親属を有(ゆう)し、

無所畏憚宜先正三河以警天下姦吏

畏(おそ)れ憚(はばか)るところがありません。宜(よろ)しく先(さき)に三河を正(ただ)して天下の不正役人をいましめるを以ってするべきです」と。

是時河南河內太守皆御史大夫杜父兄子弟也

この時、河南、河内の太守は皆(みな)漢御史大夫杜父(杜周)の兄、子弟であり、

河東太守石丞相子孫也

河東の太守は石丞相(牧丘恬侯石慶)の子孫である。

是時石氏九人為二千石方盛貴

この時、石氏は九人が二千石に為り、まさに貴人でみちあふれていた。

田仁數上書言之杜大夫及石氏使人謝謂田少卿曰

漢丞相長史田仁はたびたび上書してこれを言上した。杜大夫及び石氏は人をして謝(あやま)らせ、田少卿(漢丞相長史田仁)に謂(い)わせた、曰く、

吾非敢有語言也願少卿無相誣汙也

「吾(われ)らは敢(あ)えて話しは有りませんから、願わくは少卿(田仁)には互いにそしりあってけがすこと無かれ」と。

仁已刺三河三河太守皆下吏誅死

漢丞相長史田仁がすでに三河の罪を調べおわり、三河の太守は皆(みな)役人に下(くだ)されて誅死(ちゅうし)した。

仁還奏事武帝說以仁為能不畏彊御

漢丞相長史田仁が還(かえ)って事(こと)を奏上すると、漢孝武帝劉徹は悦(よろこ)んで、漢丞相長史田仁を以って強(きょう)を畏(おそ)れずに治(おさ)めることができると思い、

拜仁為丞相司直威振天下

漢京輔都尉田仁(丞相長史の次にさずかった官位)に官をさずけて漢丞相司直と為し、威(い)は天下に振(ふ)るわれた。

其後逢太子有兵事丞相自將兵使司直主城門

その後、漢太子劉拠が兵事を有(ゆう)したときに逢(あ)い、漢丞相劉屈氂が自ら兵を率(ひき)いて、漢丞相司直田仁をつかわし城門をつかさどらせた。

司直以為太子骨肉之親

漢丞相司直田仁は漢太子劉拠は骨肉(こつにく)の身内(みうち)であって、

父子之不甚欲近去之諸陵過

父と子の関係は甚(はなは)だ近くを欲さず、これ(漢太子劉拠)を諸陵に去(さ)らせようと思い、罪をおかした。

是時武帝在甘泉使御史大夫暴君下責丞相

この時、漢孝武帝劉徹は甘泉におり、漢御史大夫暴君(暴勝)が責任を漢丞相劉屈氂に下(くだ)し、

何為縱太子丞相對言使司直部守城門而開太子

「何の為(ため)に太子を放(はな)ったのか」と。漢丞相劉屈氂は応(こた)えて曰く、「司直をして城門の守りをとりしまらせたが、太子に開(あ)けてしまったのです」と。

上書以聞請捕系司直司直下吏誅死

上書して申し上げるを以って、漢丞相司直田仁を捕(と)らえて繋(つな)いだ。漢丞相司直田仁は役人に下(くだ)されて誅死(ちゅうし)した。

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