位宮單將妻息遠竄
位宮は 単に妻息(妻と子供)を将(ひきいる)して、遠竄(遠くへ逃げる)した。
六年儉復討之位宮輕將諸加奔沃沮
六年、母丘倹が復(また)これを討ち、位宮は軽(身軽な)にして諸加を将(ひきいる)して沃沮(カンヌン?またはソクチョ?音より)に奔(逃げる)した。
儉使將軍王頎追之絕沃沮千餘里到肅慎南界刻石紀功
母丘倹は将軍王頎をしてこれを追わせた。沃沮(カンヌン?またはソクチョ?音より)を絶(よこぎる)すること一千余里(一里150m換算で約150厖召蝓法∽蘓機福挹婁 後漢書より)の南界(おそらく北沃沮(置溝婁)のコソン?の北)に到り、石に紀功を刻んだ。
又到丸都山銘不耐城而還其後復通中夏
又、丸都山(ウォンジュ?)に至り、不耐城(堪えられなかった城の意味?で県名の不耐とは別?)と銘して還った。その後、復(また)中夏(中華)に通った。
位宮は 単に妻息(妻と子供)を将(ひきいる)して、遠竄(遠くへ逃げる)した。
六年儉復討之位宮輕將諸加奔沃沮
六年、母丘倹が復(また)これを討ち、位宮は軽(身軽な)にして諸加を将(ひきいる)して沃沮(カンヌン?またはソクチョ?音より)に奔(逃げる)した。
儉使將軍王頎追之絕沃沮千餘里到肅慎南界刻石紀功
母丘倹は将軍王頎をしてこれを追わせた。沃沮(カンヌン?またはソクチョ?音より)を絶(よこぎる)すること一千余里(一里150m換算で約150厖召蝓法∽蘓機福挹婁 後漢書より)の南界(おそらく北沃沮(置溝婁)のコソン?の北)に到り、石に紀功を刻んだ。
又到丸都山銘不耐城而還其後復通中夏
又、丸都山(ウォンジュ?)に至り、不耐城(堪えられなかった城の意味?で県名の不耐とは別?)と銘して還った。その後、復(また)中夏(中華)に通った。