晉永嘉亂鮮卑慕容廆據昌黎大棘城
晋の永嘉の乱のとき、鮮卑慕容廆が昌黎大棘城に拠りて、
元帝授平州刺史句驪王乙弗利頻寇遼東
元帝(東晋の司馬睿)は、平州(=濊?(ポハン?) 平(ヘイ)=濊(ホイ)?)刺史(地方長官)を授けた。句驪王乙弗利は頻(たびたび)、遼東(=領東? ソベク山脈の東?)を寇した。
廆不能制弗利死子劉代立
慕容廆は制することができなかった。乙弗利が死に、子の劉が代わって立った。
康帝建元元年慕容廆子晃率兵伐之
康帝建元元年、慕容廆の子の晃が兵を率いてこれを伐し、
劉與戰大敗單馬奔走
句驪王劉は戦いに与(くみ)したが、大敗し、単馬(騎馬)で奔走した。
晃乘勝追至丸都焚其宮室
慕容晃は勝ちに乗じて追いかけ丸都(ウォンジュ?)に至り、その宮室を焚(焼く)した。
掠男子五萬餘口以歸
男子五万余口を虜(いけどり 掠(リャク)=虜(リョ)?)して帰った。
晋の永嘉の乱のとき、鮮卑慕容廆が昌黎大棘城に拠りて、
元帝授平州刺史句驪王乙弗利頻寇遼東
元帝(東晋の司馬睿)は、平州(=濊?(ポハン?) 平(ヘイ)=濊(ホイ)?)刺史(地方長官)を授けた。句驪王乙弗利は頻(たびたび)、遼東(=領東? ソベク山脈の東?)を寇した。
廆不能制弗利死子劉代立
慕容廆は制することができなかった。乙弗利が死に、子の劉が代わって立った。
康帝建元元年慕容廆子晃率兵伐之
康帝建元元年、慕容廆の子の晃が兵を率いてこれを伐し、
劉與戰大敗單馬奔走
句驪王劉は戦いに与(くみ)したが、大敗し、単馬(騎馬)で奔走した。
晃乘勝追至丸都焚其宮室
慕容晃は勝ちに乗じて追いかけ丸都(ウォンジュ?)に至り、その宮室を焚(焼く)した。
掠男子五萬餘口以歸
男子五万余口を虜(いけどり 掠(リャク)=虜(リョ)?)して帰った。