孝武太元十年句驪攻遼東玄菟郡
孝武太元十年、句驪は領東(ソベク山脈の東? 遼(リョウ)=領(リョウ)?)、玄菟郡(テジョン?)を攻めた。
後燕慕容垂遣弟農伐句驪復二郡
後燕の慕容垂が弟の農を遣わし、句驪を伐し、二郡を復(もとにもどす)した。
垂死子寶立以句驪王安為平州牧封遼東帶方二國王
慕容垂が死に、子の宝が立った。句驪王安を以て平州牧と為し、遼東(=領東?サンジュ、キムチョンの辺り?)、帯方(テグ? 音より)の二国王を封じた。
安始置長史司馬參軍官後略有遼東郡
句驪王安は始めて長史、司馬、参軍官を置き、後に遼東郡(領東郡?)を略(ほぼ)有した。
孝武太元十年、句驪は領東(ソベク山脈の東? 遼(リョウ)=領(リョウ)?)、玄菟郡(テジョン?)を攻めた。
後燕慕容垂遣弟農伐句驪復二郡
後燕の慕容垂が弟の農を遣わし、句驪を伐し、二郡を復(もとにもどす)した。
垂死子寶立以句驪王安為平州牧封遼東帶方二國王
慕容垂が死に、子の宝が立った。句驪王安を以て平州牧と為し、遼東(=領東?サンジュ、キムチョンの辺り?)、帯方(テグ? 音より)の二国王を封じた。
安始置長史司馬參軍官後略有遼東郡
句驪王安は始めて長史、司馬、参軍官を置き、後に遼東郡(領東郡?)を略(ほぼ)有した。