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Channel: 倭人伝を解く
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又制守墓人

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又制守墓人自今以後不得更相轉賣

また守墓人を制して今より以後、更相((墓を)みるを取り替える?)、転売(別のところに行ってやめる 売(うらぎる→やめる))を得ず。

雖有富足之者亦不得擅買

富足の者がいたと雖も、また擅(ほしいまま)に買(やとう)うことを得ず。

其有違令賣者刑之

令に違えて売(やめる)る者がいれば、これを刑し、

買人制令守墓之

買(やとう)った人がいれば制してこれを守墓に令(させる)する。

(まとめ)高句麗の始祖朱蒙の故郷は北夷の丱離と梁書にあります。丱離とは音から高麗とも読めて、集安市の近くの桓仁(カンレン)というところが、音が似ています。この辺りが高句麗の発祥地ではないかと推測します。そして集安は高句麗の王族の墓地で、近くに守墓人を住まわせた町ではないでしょうか。夫余を音からピョンヤンと比定すれば、朱蒙はピョンヤンで王になり、その子孫が別れて南に向かったと史書からは伺えます。
広開土王碑の近くに太王陵と将軍塚が有りますが、その将軍塚とは、後継ぎの孫(または子(梁書より)の文咨明王)の雲の墓かもしれません。雲は車騎大将軍という大号を頂き、また開府儀同三司という大変名誉な位を授かりましたので、「将軍」と呼ばれてふさわしい人物だと思います。太王陵はその名の通り長寿王の墓かもしれません。

今日で広開土王碑の訳は終わりです。明日からは隋書に入りたいと思います。

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