去延興中遣使乙力支朝獻
去る延興中(471~476)、使者の乙力支を遣わし朝献した。
太和初又貢馬五百匹
太和初年(477)、又、馬五百匹を貢いだ。
乙力支稱初發其國北船溯難河西上至太水河
乙力支は称(とな)えた、初めその国を発したとき、北へ船で難河(おそらく大同江?)の西上(西に別れた本流?)を遡(さかのぼる)し、太水河(おそらく大同江が東に折れる場所?その辺りから川幅が太くなります)に至り、
沉船於水南出陸行渡洛孤水從契丹西界達和龍
水(川)に船を碇(いかりをおろす 沈(チン)=碇(テイ)?)し、路出(みちに出る 南(ダン→ラン)=路(ロ)?)して陸行し、洛孤水(清川江?)を渡り、契丹の西界より和龍に達した、(おそらく和龍とは清川江北岸の支流の九龍江のある北朝鮮寧辺の辺り? 和(クヮ)=九(ク)? 龍=龍 おそらくその辺りから船出して大連→天津辺りに着岸したのかもしれません。)と。
自云其國先破高句麗十落
自ら云う、その国の先(祖先)は、高句麗の十の邑落を破り、
密其百濟謀從水道並力取高句麗
密かに百済と(其=与?)謀り、水道(川の道)より力を併(並(へい)=併(ヘイ)?)せて、高句麗を取った。
遣乙力支奉使大國請其可否
乙力支を遣わして大国に奉使させ、その可否を請う、と。
去る延興中(471~476)、使者の乙力支を遣わし朝献した。
太和初又貢馬五百匹
太和初年(477)、又、馬五百匹を貢いだ。
乙力支稱初發其國北船溯難河西上至太水河
乙力支は称(とな)えた、初めその国を発したとき、北へ船で難河(おそらく大同江?)の西上(西に別れた本流?)を遡(さかのぼる)し、太水河(おそらく大同江が東に折れる場所?その辺りから川幅が太くなります)に至り、
沉船於水南出陸行渡洛孤水從契丹西界達和龍
水(川)に船を碇(いかりをおろす 沈(チン)=碇(テイ)?)し、路出(みちに出る 南(ダン→ラン)=路(ロ)?)して陸行し、洛孤水(清川江?)を渡り、契丹の西界より和龍に達した、(おそらく和龍とは清川江北岸の支流の九龍江のある北朝鮮寧辺の辺り? 和(クヮ)=九(ク)? 龍=龍 おそらくその辺りから船出して大連→天津辺りに着岸したのかもしれません。)と。
自云其國先破高句麗十落
自ら云う、その国の先(祖先)は、高句麗の十の邑落を破り、
密其百濟謀從水道並力取高句麗
密かに百済と(其=与?)謀り、水道(川の道)より力を併(並(へい)=併(ヘイ)?)せて、高句麗を取った。
遣乙力支奉使大國請其可否
乙力支を遣わして大国に奉使させ、その可否を請う、と。