太和三年高句麗竊與蠕蠕謀欲取地豆於分之
太和三年(479)、高句麗が窃(ひそかに)に蠕蠕と謀り、地豆於国を取ってこれを分けることを欲した。
契丹懼其侵軼其莫弗賀勿於率其部落車三千乘
契丹はその侵軼(攻撃)を懼(おそ)れ、その莫弗(おそらく長帥という意味)の賀勿於がその部落の車三千台、
眾萬餘口驅徙雜畜求入內附止於白狼水東
衆一万余人を率いて、雑畜を駆徙(追い立てて移す)し、内附(服属)に入ることを求め、白狼水の東に止まった。
自此歲常朝貢後告饑高祖矜之聽其入關市糴
此れより歳に常に朝貢した。後、饑(飢える)を告げ、高祖(北魏 孝文帝在位471~499)はこれを矜(あわれむ)し、その入関、市糴(穀物を買い入れる)を聴き入れた。
及世宗肅宗時恆遣使貢方物
世宗(北魏 宣武帝在位499~515)、肅宗(北魏 孝明帝在位515~528)の時に及ぶまで、恒(つね)に使者を遣わして方物を貢いだ。
太和三年(479)、高句麗が窃(ひそかに)に蠕蠕と謀り、地豆於国を取ってこれを分けることを欲した。
契丹懼其侵軼其莫弗賀勿於率其部落車三千乘
契丹はその侵軼(攻撃)を懼(おそ)れ、その莫弗(おそらく長帥という意味)の賀勿於がその部落の車三千台、
眾萬餘口驅徙雜畜求入內附止於白狼水東
衆一万余人を率いて、雑畜を駆徙(追い立てて移す)し、内附(服属)に入ることを求め、白狼水の東に止まった。
自此歲常朝貢後告饑高祖矜之聽其入關市糴
此れより歳に常に朝貢した。後、饑(飢える)を告げ、高祖(北魏 孝文帝在位471~499)はこれを矜(あわれむ)し、その入関、市糴(穀物を買い入れる)を聴き入れた。
及世宗肅宗時恆遣使貢方物
世宗(北魏 宣武帝在位499~515)、肅宗(北魏 孝明帝在位515~528)の時に及ぶまで、恒(つね)に使者を遣わして方物を貢いだ。