九年新羅百濟遣使訟建武云閉其道路不得入朝
武徳九年(626)、新羅、百済が使者を遣わし、建武を訟(うったえる)し、その道路を閉じ、入朝ができないことを云う。
又相與有隙屢相侵掠
又、相ともに隙(仲たがい)が有り、屢(たびたび)たがいに侵掠しあうと。
詔員外散騎侍郎硃子奢往和解之
員外散騎侍郎硃子奢に詔(みことのり)してこれを和解させに往かせた。
建武奉表謝罪請與新羅對使會盟
建武は表を奉り謝罪し、新羅と対(むかいあう)して会盟せしむことを請うた。
貞觀二年破突厥頡利可汗建武遣使奉賀並上封域圖
貞観二年(628)、突厥の頡利可汗を破った。建武は使者を遣わし奉賀し、並びに封域図(国境の地図)を上(さしあげる)した。
五年詔遣廣州都督府司馬長孫師往收瘞隋時戰亡骸骨毀高麗所立京觀
貞観五年(631)、詔(みことのり)して広州都督府司馬長孫師を遣わし、瘞(うずめる)した隋の時に戦いで亡くなった骸骨を収めに往かせ、高麗が立てた所の京観(敵兵の死体を積み重ねた上に築いたつか)を毀(こわす)した。
建武懼伐其國乃築長城東北自扶餘城西南至海千有餘里
建武はその国を伐(うつ)されることを懼(おそ)れ、すなわち長城(長い城壁)を築き、東北に扶余城(音から平壌城と読め、ソウル城(隋書 三京より)?)より、西南に海(=江(漢江)?)に至るまで、一千と余里(一里150m換算で約150厖召蝓法
十四年遣其太子桓權來朝並貢方物太宗優勞甚至
貞観十四年(640)、その太子の桓権を遣わし来朝させ、並びに方物を貢いだ。唐太宗(在位626~649)は、優労(厚くねぎらう)すること甚至(非常に)であった。
武徳九年(626)、新羅、百済が使者を遣わし、建武を訟(うったえる)し、その道路を閉じ、入朝ができないことを云う。
又相與有隙屢相侵掠
又、相ともに隙(仲たがい)が有り、屢(たびたび)たがいに侵掠しあうと。
詔員外散騎侍郎硃子奢往和解之
員外散騎侍郎硃子奢に詔(みことのり)してこれを和解させに往かせた。
建武奉表謝罪請與新羅對使會盟
建武は表を奉り謝罪し、新羅と対(むかいあう)して会盟せしむことを請うた。
貞觀二年破突厥頡利可汗建武遣使奉賀並上封域圖
貞観二年(628)、突厥の頡利可汗を破った。建武は使者を遣わし奉賀し、並びに封域図(国境の地図)を上(さしあげる)した。
五年詔遣廣州都督府司馬長孫師往收瘞隋時戰亡骸骨毀高麗所立京觀
貞観五年(631)、詔(みことのり)して広州都督府司馬長孫師を遣わし、瘞(うずめる)した隋の時に戦いで亡くなった骸骨を収めに往かせ、高麗が立てた所の京観(敵兵の死体を積み重ねた上に築いたつか)を毀(こわす)した。
建武懼伐其國乃築長城東北自扶餘城西南至海千有餘里
建武はその国を伐(うつ)されることを懼(おそ)れ、すなわち長城(長い城壁)を築き、東北に扶余城(音から平壌城と読め、ソウル城(隋書 三京より)?)より、西南に海(=江(漢江)?)に至るまで、一千と余里(一里150m換算で約150厖召蝓法
十四年遣其太子桓權來朝並貢方物太宗優勞甚至
貞観十四年(640)、その太子の桓権を遣わし来朝させ、並びに方物を貢いだ。唐太宗(在位626~649)は、優労(厚くねぎらう)すること甚至(非常に)であった。