其法有謀反叛者則集衆持火炬
其法有謀反叛者則集衆持火炬競燒灼之燋爛備體然後斬首家悉籍沒 その法は、反叛を謀る者が有れば、則ち、衆を集めて火炬(たいまつ)を持ち、競ってこれを燒灼し、燋爛糜体(焼けただれたからだ 備(ビ)=糜(ビ)?)は然る後、斬首され、家は悉く籍没する。 守城降敵臨陣敗北殺人行劫者斬 城を守って適に降服した者、陣に臨んで敗北した者、人を殺して行劫(強奪をする)した者は、斬刑。 盜物者十二倍酬贓殺牛馬者沒身爲奴婢...
View Article俗愛書籍
俗愛書籍至於衡門廝養之家各於街衢造大屋謂之扃堂子弟未婚之前晝夜于此讀書習射 俗は書籍を愛し、衡門廝養の家(簡単な門構えの召使のいる家(中流の家?)に至(およぶ)まで、各(おのおの)は、街衢(まちなかのにぎやかなところ)に於いて大屋(おおきい家)を造り、これを扃堂(閂の戸のある講堂)と謂い、子弟(子供たち)の未婚の前に、昼夜ここで書を読み、射を習う。 其書有五經及史記漢書范曄後漢書三國志孫盛晉春秋...
View Article其王高建武即前王高元異母弟也
其王高建武即前王高元異母弟也 その王高建武(高句麗栄留王 在位618~642)は即ち、前王の高元(高句麗嬰陽王 在位590~618)の異母弟である。 武二年遣使來朝四年又遣使朝貢 武徳二年(619年)、使者を遣わし来朝した。四年(621)、又、使者を遣わして朝貢した。 高祖感隋末戰士多陷其地五年賜建武書曰 高祖(唐初代皇帝李淵...
View Article普天之下情均撫字
普天之下情均撫字 普天(広い天)の下(もと)、情矜(なさけ あわれみ 均(キン)=矜(キン)?)、撫字(いたわりいつくしむ)し、 日月所照咸使乂安 太陽、月の照らす所は、咸(あまねく)、乂安(治まって安らか)せしむ。 王既統攝遼左世居籓服 王は既に梁左(梁の東方 遼(リョウ)=梁(リョウ)?)を統摂(まとめる)し、世(代々)、荒服(都からもっとも遠い地帯 藩(ハン)=荒(ホワン)?)に居し、...
View Article故遣使者跋涉山川
故遣使者跋涉山川 故に使者を遣わし、山川を跋渉し、 申布誠懇朕甚嘉焉 誠懇(まごころ)を伸布(のべひろげる)し、朕は甚だ嘉(よみ)するのである。 方今六合晏四海清平 まさに今、六合(東西南北上下の六つの方角)は晏(寧安)し、四海は清平で、 玉帛既通道路無壅 玉帛は既に通じ、道路は壅(ふさがる)することは無し。 方申輯睦永敦聘好 まさに輯睦(やわらぎむつまじくする)を伸(のべる...
View Article但隋氏季年連兵構難
但隋氏季年連兵構難 但(ただし)、隋氏(隋)の季年(末世)、兵を連ねて難(戦乱)を構え、 攻戰之所各失其民 攻戦の所は各(おのおの)その民を失った。 遂使骨肉乖離室家分析 遂に骨肉(親子兄弟など)は乖離(離れる)し、室家は分析(わかれる)した。 多歷年歲怨曠不申 年歳を多歷(多く経る)し、怨恨(うらみ 曠(コウ)=恨(コン)?)は申さず。 今二國通和義無阻異在此所有高麗人等已令追括尋即遣送...
View Article於是建武悉搜括華人以禮賓送
於是建武悉搜括華人以禮賓送 ここに於いて建武(高句麗栄留王 在位618~642)は、悉(ことごと)く、華人を搜括(さがしもとめる)し、礼を以て賓送した。 前後至者萬數高祖大喜 前後して至った者は万を数えた。唐高祖は大いに喜んだ。 七年遣前刑部尚書沈叔安往冊建武爲上柱國遼東郡王高麗王 武徳七年(624)、前刑部尚書沈叔安を遣わし、建武に上柱国、遼東郡王、高麗王を往冊した。 仍將天尊像及道士往彼...
View Article高祖嘗謂侍臣曰
高祖嘗謂侍臣曰名實之間理須相副 唐高祖は嘗て侍臣に謂った、曰く、「名実(うわべと中身)の間は、理(ことわり)と須(必然?)が相(あい)副(分ける)しあう。 高麗稱臣于隋終拒煬帝此亦何臣之有 高麗は隋に臣を称(とな)えたが、終いには煬帝(隋二代皇帝)を拒(こば)んだ。此れ、亦(また)、なんと臣の雄(すぐれる 有(ユウ)=雄(ユウ)?)ではないか。 朕敬於萬物不欲驕貴但據有土宇務共安人...
View Article侍中裴矩中書侍郎溫彥博曰
侍中裴矩中書侍郎溫彥博曰 侍中裴矩、中書侍郎温彦博曰く、 遼東之地周爲箕子之國漢家玄菟郡耳 「遼東(おそらく京畿湾の辺り一帯?)の地は、周のとき、箕子の国をつくり、漢家は玄菟郡のみ。 魏晉已前近在提封之內不可許以不臣 魏、晋以前は近くて提封(大荒(海外)?)の内(うち)に在り、臣にならないことは許されるべきではありませんでした。 且中國之于夷狄猶太陽之對列星...
View Article九年新羅百濟遣使訟建武
九年新羅百濟遣使訟建武云閉其道路不得入朝 武徳九年(626)、新羅、百済が使者を遣わし、建武を訟(うったえる)し、その道路を閉じ、入朝ができないことを云う。 又相與有隙屢相侵掠 又、相ともに隙(仲たがい)が有り、屢(たびたび)たがいに侵掠しあうと。 詔員外散騎侍郎硃子奢往和解之 員外散騎侍郎硃子奢に詔(みことのり)してこれを和解させに往かせた。 建武奉表謝罪請與新羅對使會盟...
View Article十六年西部大人蓋蘇文攝職有犯
十六年西部大人蓋蘇文攝職有犯諸大臣與建武議欲誅之 貞観十六年(642)、西部大人の蓋蘇文が職を摂り、犯(罪)が有り、諸大臣は建武とともに議して、これを誅することを欲した。 事泄蘇文乃悉召部兵云將校閱並盛陳酒饌于城南諸大臣皆來臨視...
View Article蘇文姓錢氏須貌甚偉
蘇文姓錢氏須貌甚偉形體魁傑身佩五刀左右莫敢仰視 蘇文の姓は銭氏で、須貌(あごひげの顔)は甚だ偉(すぐれて立派である)で、形体は魁傑(ぬきんでて大きい)で、身には五つの刀を佩(お)び、左右は敢えて仰ぎ視るものはない。 恆令其屬官俯伏於地踐之上馬及下馬亦如之 恒にその属官に令して、地面に俯伏(ひれふす)させる。踐(従者?)の、馬に上がるとき、および馬を下りるときも、亦この如くさせた。...
View Article太宗聞建武死爲之舉哀使持節弔祭
太宗聞建武死爲之舉哀使持節弔祭 太宗(唐第二代皇帝 在位626~649)は建武の死を聞き、これの為に哀(礼式の一つ)を挙げ、持節をして弔祭をした。 十七年封其嗣王藏爲遼東郡王高麗王 貞観十七年(643)、その嗣王の蔵を封じて遼東郡王、高麗王に為した。 又遣司農丞相里玄獎齎璽書往說諭高麗令勿攻新羅...
View Article玄奘曰既往之事
玄奘曰既往之事焉可追論蘇文竟不從 玄奘は曰く、「既に往(むかし)の事、どうして追論するべきか?」と。蘇文はとうとう従わなかった。 太宗顧謂侍臣曰莫離支賊弑其主盡殺大臣用刑有同坑阱 太宗は顧みて侍臣に謂った、曰く、「莫離支(蘇文)は、その主を賊弑し、尽く大臣を殺し、刑を用いるは、坑阱(穴埋め)と同じものが有る。 百姓轉動輒死怨痛在心道路以目 百姓の転動は輒(すなわち)死である。怨痛は侵(おかす...
View Article十九年命刑部尚書張亮爲平壤道行軍大總管
十九年命刑部尚書張亮爲平壤道行軍大總管領將軍常何等率江淮嶺勁卒四萬 貞観十九年(645)、刑部尚書張亮に命じて、平壌道行軍大総管と為し、領将軍常何らに江、淮、嶺、の勁卒(強い兵士)四万人を率いさせ、 戰船五百艘自萊州汎海趨平壤 戦船五百艘は、萊州(煙台辺り?)より海に汎(うかべる)し、平壌(音から華城と書けて水原市?(ソウルから訂正 ソウルは漢城?(三京より))に趨(向かう)した。...
View Article夏四月李勣軍渡遼進攻蓋牟城拔之
夏四月李勣軍渡遼進攻蓋牟城拔之 夏四月、李勣軍は遼(遼水?おそらく漢江?)を渡り、蓋牟城に進攻し、これを抜(攻め落とす)いた。 獲生口二萬以其城置蓋州五月張亮副將程名振攻沙卑城拔之虜其男女八千口 生口二万人を獲(と)り、その城を以て蓋州を置いた。五月、張亮副将程名振が沙卑城を攻め、これを抜(攻め落とす)いた。その男女八千口を虜にした。 是日李勣進軍於遼東城 この日、李勣は遼東城に軍を進めた。...
View Article國內及新城步騎四萬來援遼東
國內及新城步騎四萬來援遼東江夏王道宗率騎四千逆擊大破之斬首千餘級 国内城及び新城の歩騎四万が遼東に来援した。江夏王道宗は騎兵四千を率いて逆撃し、これを大破すること、斬首一千余級。 帝渡遼水詔撤橋樑以堅士卒志帝至遼東城下 帝(唐太宗)は遼水(漢江?)を渡り、詔(みことのり)して橋樑(はし)を撤(とりはらう)させ、士卒の志を堅(かた)くするを以てした。帝は遼東城下に至った。...
View Article高麗聞我有拋車飛三百斤石
高麗聞我有拋車飛三百斤石於一里之外者甚懼之 高麗は我(唐)には拋車が有り、三百斤(漢代の斤で計算すると、一斤約226g×300=約67.8圈砲寮个魄賣ぁ憤賣ぃ隠毅娃躊校擦婆鵤隠毅娃蹇砲粒阿鉾瑤个垢畔垢、甚だこれを懼れた。 乃于城上積木爲戰樓以拒飛石 乃ち、城の上に木を積んで戦楼をつくり、飛ぶ石を拒(ふせぐ)むを以てした。 勣列車發石以擊其城所遇盡潰...
View Article戰士登城賊乃大潰
戰士登城賊乃大潰燒死者萬余人 戦士は城に登り、賊は乃ち大潰し、焼死者は一万余人。 俘其勝兵萬餘口以其城爲遼州 その勝兵(強い兵)一万余人を俘(とりこにする)し、その城(遼東城)を以て遼州と為した。 初帝自定州命每數十里置一烽屬於遼城 初(以前)、帝(唐太宗)は定州(通定鎮?(唯於遼水西抜賊武邏置遼東郡及通定鎮而還...
View Article師次白崖城命攻之
師次白崖城命攻之右衛大將軍李思摩中弩矢 師(軍隊)は白崖城に次(宿泊する)ぎ、これを攻めることを命じた。右衛大将軍李思摩が弩(いしゆみ)の矢に中(あた)った。 帝親爲吮血將士聞之莫不感勵 帝(唐太宗)は親(みずから)、吮血(血を吸う)を為し、将士はこれを聞き、感勵(ふるいたつ)せずはなし。 其城因山臨水四面險絕李勣以撞車撞之飛石流矢雨集城中...
View Article