夏四月李勣軍渡遼進攻蓋牟城拔之
夏四月、李勣軍は遼(遼水?おそらく漢江?)を渡り、蓋牟城に進攻し、これを抜(攻め落とす)いた。
獲生口二萬以其城置蓋州五月張亮副將程名振攻沙卑城拔之虜其男女八千口
生口二万人を獲(と)り、その城を以て蓋州を置いた。五月、張亮副将程名振が沙卑城を攻め、これを抜(攻め落とす)いた。その男女八千口を虜にした。
是日李勣進軍於遼東城
この日、李勣は遼東城に軍を進めた。
帝次遼澤詔曰頃者隋師渡遼時非天贊
帝(唐太宗)は遼沢に次(宿泊する)いで、詔(みことのり)して曰く、「頃者(近年)、隋の師(軍隊)が遼(おそらく漢江?)を渡り、時に天賛(天の助け)は非ず、
從軍士卒骸骨相望遍于原野良可哀歎
従軍士卒の骸骨は相(つぎつぎに)望まれ原野に遍(ゆきわたる)くした。良(まことに)、哀歎(いたみなげく)するべきである。
掩骼之義誠爲先典其令並收瘞之
掩骼(骨をおおう)の義は誠に先典と為し、其の、これを並(すべて)收瘞(おさめ埋葬する)することを令する」と。
夏四月、李勣軍は遼(遼水?おそらく漢江?)を渡り、蓋牟城に進攻し、これを抜(攻め落とす)いた。
獲生口二萬以其城置蓋州五月張亮副將程名振攻沙卑城拔之虜其男女八千口
生口二万人を獲(と)り、その城を以て蓋州を置いた。五月、張亮副将程名振が沙卑城を攻め、これを抜(攻め落とす)いた。その男女八千口を虜にした。
是日李勣進軍於遼東城
この日、李勣は遼東城に軍を進めた。
帝次遼澤詔曰頃者隋師渡遼時非天贊
帝(唐太宗)は遼沢に次(宿泊する)いで、詔(みことのり)して曰く、「頃者(近年)、隋の師(軍隊)が遼(おそらく漢江?)を渡り、時に天賛(天の助け)は非ず、
從軍士卒骸骨相望遍于原野良可哀歎
従軍士卒の骸骨は相(つぎつぎに)望まれ原野に遍(ゆきわたる)くした。良(まことに)、哀歎(いたみなげく)するべきである。
掩骼之義誠爲先典其令並收瘞之
掩骼(骨をおおう)の義は誠に先典と為し、其の、これを並(すべて)收瘞(おさめ埋葬する)することを令する」と。