十九年命刑部尚書張亮爲平壤道行軍大總管領將軍常何等率江淮嶺勁卒四萬
貞観十九年(645)、刑部尚書張亮に命じて、平壌道行軍大総管と為し、領将軍常何らに江、淮、嶺、の勁卒(強い兵士)四万人を率いさせ、
戰船五百艘自萊州汎海趨平壤
戦船五百艘は、萊州(煙台辺り?)より海に汎(うかべる)し、平壌(音から華城と書けて水原市?(ソウルから訂正 ソウルは漢城?(三京より))に趨(向かう)した。
又以特進英國公李勣爲遼東道行軍大總管禮部尚書江夏王道宗爲副領將軍張士貴等率步騎六萬趨遼東
また、特進英国公李勣を以て遼東道行軍大総管と為し、礼部尚書江夏王道宗を副管と為し、領将軍張士貴らは歩騎六万人を率いて、遼東(仁川辺り?)に趨(向かう)した。
兩軍合勢太宗親御六軍以會之
両軍(海軍と陸軍) は勢力を合わせ、唐太宗は親(みずから)六軍を御してこれに会するを以てした。
貞観十九年(645)、刑部尚書張亮に命じて、平壌道行軍大総管と為し、領将軍常何らに江、淮、嶺、の勁卒(強い兵士)四万人を率いさせ、
戰船五百艘自萊州汎海趨平壤
戦船五百艘は、萊州(煙台辺り?)より海に汎(うかべる)し、平壌(音から華城と書けて水原市?(ソウルから訂正 ソウルは漢城?(三京より))に趨(向かう)した。
又以特進英國公李勣爲遼東道行軍大總管禮部尚書江夏王道宗爲副領將軍張士貴等率步騎六萬趨遼東
また、特進英国公李勣を以て遼東道行軍大総管と為し、礼部尚書江夏王道宗を副管と為し、領将軍張士貴らは歩騎六万人を率いて、遼東(仁川辺り?)に趨(向かう)した。
兩軍合勢太宗親御六軍以會之
両軍(海軍と陸軍) は勢力を合わせ、唐太宗は親(みずから)六軍を御してこれに会するを以てした。