十六年西部大人蓋蘇文攝職有犯諸大臣與建武議欲誅之
貞観十六年(642)、西部大人の蓋蘇文が職を摂り、犯(罪)が有り、諸大臣は建武とともに議して、これを誅することを欲した。
事泄蘇文乃悉召部兵云將校閱並盛陳酒饌于城南諸大臣皆來臨視
事は泄(もれる)して、蘇文は乃ち悉く部兵を召した。まさに校閱(文書の誤りなどを調べ見ること)せんと云い、並びに陳酒、饌(食事)を城南において盛り、諸大臣は皆(みな)、臨視(よくみる)に来た。
蘇文勒兵盡殺之死者百余人
蘇文は勒兵(軍隊をととのえ指揮する)して尽くこれを殺した。死者は百余人。
焚倉庫因馳入王宮殺建武立建武弟大陽子藏爲王
倉庫を焚(やく)し、因りて王宮に馳せ入り、建武を殺した。建武の弟の大陽子蔵を立てて王と為した。
自立爲莫離支猶中國兵部尚書兼中書令職也自是專國政
自ら立って莫離支と為った。猶(ちょうど)中国の兵部尚書兼中書令職とおなじである。是(これ)より、国政を専らにした。
貞観十六年(642)、西部大人の蓋蘇文が職を摂り、犯(罪)が有り、諸大臣は建武とともに議して、これを誅することを欲した。
事泄蘇文乃悉召部兵云將校閱並盛陳酒饌于城南諸大臣皆來臨視
事は泄(もれる)して、蘇文は乃ち悉く部兵を召した。まさに校閱(文書の誤りなどを調べ見ること)せんと云い、並びに陳酒、饌(食事)を城南において盛り、諸大臣は皆(みな)、臨視(よくみる)に来た。
蘇文勒兵盡殺之死者百余人
蘇文は勒兵(軍隊をととのえ指揮する)して尽くこれを殺した。死者は百余人。
焚倉庫因馳入王宮殺建武立建武弟大陽子藏爲王
倉庫を焚(やく)し、因りて王宮に馳せ入り、建武を殺した。建武の弟の大陽子蔵を立てて王と為した。
自立爲莫離支猶中國兵部尚書兼中書令職也自是專國政
自ら立って莫離支と為った。猶(ちょうど)中国の兵部尚書兼中書令職とおなじである。是(これ)より、国政を専らにした。