太宗聞建武死爲之舉哀使持節弔祭
太宗(唐第二代皇帝 在位626~649)は建武の死を聞き、これの為に哀(礼式の一つ)を挙げ、持節をして弔祭をした。
十七年封其嗣王藏爲遼東郡王高麗王
貞観十七年(643)、その嗣王の蔵を封じて遼東郡王、高麗王に為した。
又遣司農丞相里玄獎齎璽書往說諭高麗令勿攻新羅
また司農丞相里玄獎を遣わし、璽書を齎(すすめる)し、高麗に説諭(ときさとす)に往かせ、新羅を攻めないよう令した。
蓋蘇文謂玄獎曰高麗新羅怨隙已久往者隋室相侵
蓋蘇文は玄獎に謂った、曰く、「高麗、新羅は怨隙(うらみ 仲たがい)は已(すでに)久しい。往者(むかし)、隋室(隋王朝)が相(つぎつぎに)侵し、
新羅乘釁奪高麗五百里之地城邑新羅皆據有之
新羅は釁(あきま)に乗じて高麗の五百里の地を奪い、城邑は新羅が皆(みな)これを拠有(たてこもって自分のものとする)した。
自非反地還城此兵恐未能已
自(もし)、地を返(反=返?)し、城を還(かえ)さなければ、此の兵(たたかい)は恐らく未だ已(終わる)することはできない」と。
太宗(唐第二代皇帝 在位626~649)は建武の死を聞き、これの為に哀(礼式の一つ)を挙げ、持節をして弔祭をした。
十七年封其嗣王藏爲遼東郡王高麗王
貞観十七年(643)、その嗣王の蔵を封じて遼東郡王、高麗王に為した。
又遣司農丞相里玄獎齎璽書往說諭高麗令勿攻新羅
また司農丞相里玄獎を遣わし、璽書を齎(すすめる)し、高麗に説諭(ときさとす)に往かせ、新羅を攻めないよう令した。
蓋蘇文謂玄獎曰高麗新羅怨隙已久往者隋室相侵
蓋蘇文は玄獎に謂った、曰く、「高麗、新羅は怨隙(うらみ 仲たがい)は已(すでに)久しい。往者(むかし)、隋室(隋王朝)が相(つぎつぎに)侵し、
新羅乘釁奪高麗五百里之地城邑新羅皆據有之
新羅は釁(あきま)に乗じて高麗の五百里の地を奪い、城邑は新羅が皆(みな)これを拠有(たてこもって自分のものとする)した。
自非反地還城此兵恐未能已
自(もし)、地を返(反=返?)し、城を還(かえ)さなければ、此の兵(たたかい)は恐らく未だ已(終わる)することはできない」と。