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旧唐書 日本国伝 始め

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日本國者倭國之別種也以其國在日邊故以日本爲名

日本国とは、倭国の別種である。その国は日(太陽)の辺(はて)に在るのを以て、故(ゆえ)に日本が名と為すを以てした。

或曰倭國自惡其名不雅改爲日本或云日本舊小國併倭國之地其人入朝者多自矜大不以實對故中國疑焉

或いは曰く、倭国は自らその名は不雅であると悪(きらう)し、改めて日本と為したと。或いは云う、日本は旧(むかし)は小国で、倭国の地を併せたと。その人の入朝する者は、多くが自ら矜大(尊大)で、実(まこと)の対(こたえる)を以てせず、故(ゆえ)に中国は疑った。

又云其國界東西南北各數千里西界南界咸至大海東界北界有大山爲限山外即毛人之國

又、云う、その国の境界は東西南北が各(おのおの)数千里(一里150m換算で約300辧腺苅毅悪辧砲如∪廠Α南界は咸(みな)大海に至り(大阪湾と紀伊水道?)、東界、北界には大山が有って限りと為す(東は布引山地、高見山地 紀伊山地辺り、北は丹波高地辺り?)。山の外(東方と北方)は即ち毛人の国である。

長安三年其大臣朝臣真人來貢方物朝臣真人者猶中國戶部尚書冠進冠其頂爲花分而四散身服紫袍以帛爲腰帶

長安三年(703)、その大臣の朝臣真人が来て方物を貢いだ。朝臣真人とは、猶(ちょうど)、中国の戸部尚書とおなじである。冠は進徳冠で、その頂(いただき)に花をつくり、分かれて四散する。身は紫の袍(たけの長い服)を服(着る)し、帛(きぬ)を以て腰帯と為す。

真人好讀經史解屬文容止溫雅則天宴之於麟殿授司膳卿放還本國

真人は経、史書を読むことを好み、属文(文をつづること)が解(わか)り、容姿(止(シ)=姿(シ)?)は温雅である。則天武后は麟徳殿に於いてこれを宴し、司膳卿を授け、本国に放還した。

開元初又遣使來朝因請儒士授經詔四門助教趙玄默就鴻臚寺教之乃遺玄默闊幅布以爲束修之禮

開元(713~741)の初め、又、使者を遣わして来朝した。因りて儒士の授経を請うた。詔(みことのり)して、四門助教趙玄默に鴻臚寺に就(おもむく)かせ、これに教えさせた。そこで、玄默に 屩(くつ 闊(クオ)=屩(チュエ)?)、幅布(きゃはん)を遺(おくる)し、足修(束(ソク)=足(ソク)?)の礼を為すを以てした。

題云白龜元年調布人亦疑其偽所得錫賚盡市文籍泛海而還

題(書き記す)して云う、白亀元年、調布(おそらく屩幅(くつときゃはん 調(チョウ)=屩(チュエ)? 布(ブー)=幅(フー)?)と書いたつもり?)と。人は亦その義(意味 偽(ギ)=義(ギ)?)を疑(疑問におもう)った。得た所の錫賚(たまわりもの)は、尽く文籍に市(もとめる)し、海に泛(うかぶ)して還った。

其偏使朝臣仲滿慕中國之風因留不去改姓名爲朝衡仕曆左補闕儀王友衡留京師五十年好書籍放歸鄉逗留不去

その偏使の朝臣仲満は中国の風を慕い、因りて留まって去らず、姓名を改めて、朝衡と為した。曆左補闕、儀王友に仕(つか)えた。朝衡は京師(おそらく大連の金州?)に留まること五十年、書籍を好んだ。郷(さと)に放帰させたが、逗留して去らなかった。

天寶十二年又遣使貢上元中擢衡爲左散騎常侍鎮南都護貞元二十年遣使來朝留學生橘免勢學問僧空海

天宝十二年(753)、又、使者を遣わして貢いだ。上元(760~761)中、朝衡を擢(引き抜く)して左散騎常侍、鎮南都護に為した。貞元二十年(804)、使者を遣わして来朝し、学生の橘免勢、学問僧の空海を留めた。

元和元年日本國使判官高階真人上言前件學生藝業稍成願歸本國便請與臣同歸從之開成四年又遣使朝貢。

元和元年(806)、日本国使の判官高階真人が上言した、「前の件の学生の芸業は稍成(ようやく成す)し、本国に帰すことを願う。便(すなわち)、臣(わたし)と帰りを同じにすることを請う」と。これに従った。開成四年(839)、又、使者を遣わして朝貢した。

今日で、旧唐書 日本国伝は終わりです。明日からは前後しますが、北史 高麗伝に入ります。

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