旧唐書 日本国伝 始め
日本國者倭國之別種也以其國在日邊故以日本爲名 日本国とは、倭国の別種である。その国は日(太陽)の辺(はて)に在るのを以て、故(ゆえ)に日本が名と為すを以てした。 或曰倭國自惡其名不雅改爲日本或云日本舊小國併倭國之地其人入朝者多自矜大不以實對故中國疑焉...
View Article北史 高麗伝 始め
高句麗其先出夫餘王嘗得河伯女因閉於室內爲日所照引身避之日影又逐既而有孕生一卵大如五升 高句麗は、その先は夫余(おそらく平壌(ピョンヤン)? 音より)が出でる。王が嘗(あるとき)、河伯(鶮鶴と書けてタンチョウ?河(ホー)=鶮(ホー)? 伯(ハク)=鶴(カク)?...
View Article及長字之曰硃蒙
及長字之曰硃蒙其俗言硃蒙者善射也夫餘人以硃蒙非人所生請除之 成長するに及んで、これに字(あざな)して曰く、硃蒙と。その俗の言で硃蒙とは、善射(弓の名人)ということである。夫余人は硃蒙が人の生まれる所で非ざるを以て、これを除くことを請うた。 王不聽命之養馬硃蒙私試知有善惡駿者減食令瘦駑者善養令肥...
View Article中道遇一大水欲濟無梁
中道遇一大水欲濟無梁夫餘人追之甚急硃蒙告水曰我是日子河伯外孫今追兵垂及如何得濟 中道(途中)、ある大きな水(川)に遇(あたる)し、済(渡る)ことを欲したが、梁(橋)が無かった。夫余人はこれを追いかけること甚だ急で、硃蒙は水(川)に告げて曰く、「我は是れ、日(太陽)の子で、河伯(タンチョウ?)の外孫である。今、追兵が垂及(及ばんとする)している。どうしたら済(渡る)することができるだろうか」と。...
View Article硃蒙死子如栗立
硃蒙死子如栗立如栗死子莫來立乃並夫餘 硃蒙が死に、子の如栗が立った。如栗が死んで、子の莫来が立った。そこで、夫余(平壌(ピョンヤン)? 音より)を併(あわせる 並(ヘイ)=併(ヘイ)?)せた。 漢武帝元封四年滅朝鮮置玄菟郡以高句麗爲縣以屬之...
View Article至殤安之間
至殤安之間莫來裔孫宮建寇遼東玄菟太守蔡風討之不能禁 殤、安の間(105~125)、莫来の裔孫(ずっと後の子孫)の宮が、遼東(おそらく仁川(インチョン)?)を侵寇(建(チェン)=侵(チン)?)した。玄菟太守蔡風(おそらく北朝鮮海州の辺り?)がこれを討とうとしたが、禁ずることができなかった。 宮死子伯固立順和之間復數犯遼東寇抄 宮が死に、子の伯固が立った。順、桓の間(和(ホー)=桓(ホワン)?...
View Article伯固死子伊夷摸立
伯固死子伊夷摸立伊夷摸自伯固時已數寇遼東又受亡胡五百餘戶 伯固が死に、子の伊夷摸が立った。伊夷摸は伯固の時より、已(非常に)数(たびたび)、遼東(仁川辺り?)を寇した。又、亡胡(靺鞨? 音より)の五百余戸を受けた。 建安中公孫康出軍擊之破其國焚燒邑落降胡亦叛 建安中(196~220の中頃)、公孫康が軍を出してこれを撃ち、その国を破った。邑落を焚焼し、降胡(亡胡?)も亦、叛いた。...
View Article伊夷摸死子位宮立
伊夷摸死子位宮立始位宮曾祖宮生而目開能視國人惡之 伊夷摸が死んで、子の位宮が立った。始(以前)、位宮の曽祖父の宮は、生まれながらにして目を開け視ることができた。国人はこれを悪(きらう)した。 及長凶虐國以殘破及位宮亦生而視人高麗呼相似爲位以爲似其曾祖宮故名位宮...
View Article魏景初二年遣太傅司馬宣王
魏景初二年遣太傅司馬宣王率衆討公孫文懿位宮遣主簿大加將數千人助軍 魏景初二年(238)、太傅司馬宣王を遣わして衆を率いさせ公孫文懿を討たせた。位宮は主簿、大加を遣わして数千人をひきいさせ軍を助けた。 正始三年位宮寇遼西安平 正始三年(242)、位宮が遼西安平(おそらく北朝鮮開城(ケソン)の南の辺り? 小水貊(三国志魏書)より)を寇した。 五年幽州刺史毋丘儉將萬人出玄菟討位宮大戰於沸流...
View Article敗走儉追至赬峴
敗走儉追至赬峴懸車束馬登丸都山屠其所都 敗走し、儉は追いかけて赬峴に至った。懸車束馬(険しい道を進む)して丸都山(高麗の都の有る山 おそらく光明市辺り?)に登り、その都する所を屠(さく きる)した。 位宮單將妻息遠竄六年儉復討之位宮輕將諸加奔沃沮...
View Article晉永嘉之亂
晉永嘉之亂鮮卑慕容廆據昌黎大棘城元帝授平州刺史 晋の永嘉の乱(307~312)のとき、鮮卑(遼寧省の辺り?)の慕容廆が昌黎大棘城を拠(拠有?)し、元帝は平州刺史(おそらくソウルの辺り一帯?)を授けた。 位宮玄孫乙弗利頻寇遼東廆不能制 位宮の玄孫の乙弗利が頻(たびたび)遼東(仁川辺り?)を寇したが、廆は制することができなかった。 弗利死子代立魏建國四年慕容廆子晃伐之...
View Article單馬奔竄
單馬奔竄晃掘父墓 は単馬で奔竄(逃走)した。晃はの父の墓を掘り、 掠其母妻珍寶男女五萬餘口焚其室毀丸都城而還 その母妻、珍宝、男女五万余人を掠め、その室を焚(焼く)し、丸都城を毀(こわす)して還った。 後爲百濟所殺 は後に百済の殺す所と為った。 及晉孝武太元十年句麗攻遼東玄菟郡 晋孝武太元十年(385)、句麗は遼東(仁川辺り?)、玄菟郡(海州辺り?)を攻めた。...
View Article太武時曾孫始遣使者詣安東
太武時曾孫始遣使者詣安東奉表貢方物並請國諱 北魏太武時(在位423~452)、の曾孫のが使者を遣わすことを始め、安東(使者名)に詣でさせ、奉表して方物を貢ぎ、並びに国の諱を請うた。 太武嘉其誠款詔下帝系名諱于其國 太武はその誠款(まごころ)を嘉し、詔してその国に帝系名諱を下した。 使員外散騎侍郎李敖拜爲都督遼海諸軍事征東將軍領東夷中郎將遼東郡公高句麗王...
View Article後貢使相尋
後貢使相尋歲致黃金二百斤白銀四百斤 後に貢使は相尋(つぎつぎに訪問する)した。歳に黄金二百斤、白銀四百斤を致(送る)した。 時馮弘率衆奔之太武遣散騎常侍封撥詔令送弘 時に馮弘が衆をひきいてここに奔(にげ)し、太武は、散騎常侍封撥を遣わして、に弘を令送(送らせる)させるよう詔(みことのり)をした。 上書稱當與弘俱奉王化竟不遣太武怒將往討之...
View Article後文明太后以獻文六宮未備
後文明太后以獻文六宮未備敕令薦其女 後、文明太后は、北魏献文帝の六宮が未だ備わっていないのを以て、に勅(みことのり)して、その女(娘)を薦めさせた。 奉表云女已出求以弟女應旨朝廷許焉乃遣安樂王真尚書李敷等至境送幣 は奉表して云った、「娘はすでに(嫁に)出ており、弟の女(娘)を以て旨(むね)に応じることを求める」と。朝廷は許した。そこで、安楽王真、尚書李敷らを遣わし、境に至って幣を送らた。...
View Article至孝文時
至孝文時貢獻倍前其報賜亦稍加焉 北魏孝文帝時(在位471~499)に至り、は前の二倍に貢献した。その報賜も亦(また)、稍加(少し加えられる)した。 時光州於海中得遣詣齊使餘奴等送闕 時に、光州(膠州と書けて青島の辺り? 光(コウ)=膠(コウ)?)が海中に於いて、が斉(南斉)に遣詣させた使者の余奴らを得て、闕に送った。 孝文詔責曰道成親殺其君竊號江左朕方欲興滅國於舊邦繼絕世于劉氏...
View Article太和十五年死年百餘歲
太和十五年死年百餘歲 太和十五年(491)、が死んだ。年は百余歳。 孝文舉哀於東郊遣謁者僕射李安上策贈車騎大將軍太傅遼東郡公高句麗王諡曰康 北魏孝文帝は東郊に於いて哀悼を挙げ、遣謁者僕射李安を遣わし、上策(はげましを申し上げる)させ、車騎大将軍、太傅、遼東郡公、高句麗王を贈った。諡(おくり名)は曰く、康と。...
View Article雲上書
雲上書辭疾遣其從叔升于隨使詣闕嚴責之自此歲常貢獻 雲は上書して(世子の)疾(やまい)を辞して、その従叔(父の従弟)の升于を遣わし、使者に随して闕に詣でさせた。これを厳しく責め、此れより、歳(毎年)に常に貢献した。 正始中宣武於東堂引見其使芮悉弗進曰 正始中(504~508)、北魏宣武帝は東堂に於いて、その使者の芮悉弗に引見した。進んで曰く、 高麗系誠天極累葉純誠地產土毛無愆王貢...
View Article宣武曰高麗世荷上將
宣武曰高麗世荷上將專制海外九夷黠虜實得征之 北魏宣武帝は曰く、「高麗は世(代々)、上将軍を荷(拝?さずかる 荷(カ)=拝(ハイ)?)し、海外を専制する。九夷は黠虜(わるがしこい敵)で、実にこれを征さなければならない。 昔方貢之愆責在連率宜宣朕旨於卿主務盡威懷之略 昔、方貢の愆(あやまち)で、責は師(高麗王将軍 連(レン)=(レン)?...
View Article神龜中
神龜中雲死靈太后爲舉哀於東堂 神亀(518~520)の中頃、雲が死んだ。霊太后(北魏世宗の妃嬪)が挙哀(哀悼の礼式)を東堂に於いて為した。 遣使策贈車騎大將軍領護東夷校尉遼東郡公高麗王 使者を遣わし、策(はげます)させ、車騎大将軍、領護東夷校尉、遼東郡公、高麗王を贈った。 又拜其世子安爲鎮東將軍領護東夷校尉遼東郡公高麗王 又、その世子の安に拝して、鎮東将軍、領護東夷校尉、遼東郡公、高麗王と為した。...
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