晉永嘉之亂鮮卑慕容廆據昌黎大棘城元帝授平州刺史
晋の永嘉の乱(307~312)のとき、鮮卑(遼寧省の辺り?)の慕容廆が昌黎大棘城を拠(拠有?)し、元帝は平州刺史(おそらくソウルの辺り一帯?)を授けた。
位宮玄孫乙弗利頻寇遼東廆不能制
位宮の玄孫の乙弗利が頻(たびたび)遼東(仁川辺り?)を寇したが、廆は制することができなかった。
弗利死子代立魏建國四年慕容廆子晃伐之
弗利が死に、子のが代わって立った。魏建国四年、慕容廆の子の晃がこれを伐した。
入自南陝戰於木底大破軍追至丸都
南陝より入り、木底に於いて戦い、軍を大破し、追いかけて丸都(高麗の都)に至った。
晋の永嘉の乱(307~312)のとき、鮮卑(遼寧省の辺り?)の慕容廆が昌黎大棘城を拠(拠有?)し、元帝は平州刺史(おそらくソウルの辺り一帯?)を授けた。
位宮玄孫乙弗利頻寇遼東廆不能制
位宮の玄孫の乙弗利が頻(たびたび)遼東(仁川辺り?)を寇したが、廆は制することができなかった。
弗利死子代立魏建國四年慕容廆子晃伐之
弗利が死に、子のが代わって立った。魏建国四年、慕容廆の子の晃がこれを伐した。
入自南陝戰於木底大破軍追至丸都
南陝より入り、木底に於いて戦い、軍を大破し、追いかけて丸都(高麗の都)に至った。