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Channel: 倭人伝を解く
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硃蒙死子如栗立

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硃蒙死子如栗立如栗死子莫來立乃並夫餘

硃蒙が死に、子の如栗が立った。如栗が死んで、子の莫来が立った。そこで、夫余(平壌(ピョンヤン)? 音より)を併(あわせる 並(ヘイ)=併(ヘイ)?)せた。

漢武帝元封四年滅朝鮮置玄菟郡以高句麗爲縣以屬之

漢武帝元封四年(BC107)、朝鮮を滅ぼし、玄菟郡(おそらく北朝鮮海州の辺り?)を置いた。高句麗(おそらく光明市辺り?東に大きな洞窟があるので)を以て県と為し、これに属させるを以てした。

漢時賜衣幘朝服鼓吹常從玄菟郡受之後稍驕不復詣郡但於東界築小城受之遂名此城爲幟溝漊

漢の時、衣幘、朝服、鼓吹を賜り、常に玄菟郡よりこれを受け取った。後、稍(次第に)驕(おご)り、郡に詣でて復(もとにもどす)さず、但(ただ)、東の界(おそらくソウルの南の漢江の南岸?)に小城を築いてこれを受け取った。遂に此の城を名付けて幟溝漊と為した。

溝漊婁者句麗城名也王莽初發高句麗兵以伐胡而不欲行莽強迫遣之皆出塞爲寇盜

溝漊婁とは、句麗の城の名(呼び方)である。王莽(BC45~AC23)の初め、高句麗兵を発して、胡(東胡?)を征伐しようとしたが、行くことを欲さなかった。王莽は強迫してこれを遣わしたが、皆(みな)塞を出て、寇盗を為した。

州郡歸咎于句麗侯騶嚴尤誘而斬之莽大更名高句麗高句麗侯光武建武八年高句麗遣使朝貢

州郡は咎(とが)を句麗侯騶(如栗)に帰し、厳尤が誘ってこれを斬った。王莽は大いに悦(よろこ)び、高句麗を更名(名をあらためる)して、高句麗侯(下句麗侯)にした。後漢光武帝の建武八年(32)、高句麗が使者を遣わして朝貢した。

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