自晉宋齊梁據江左亦遣使稱籓兼受拜封亦與魏不絕
晋、宋、斉、梁より江左(今の江蘇省辺り?)に拠(よりどころとする)し、亦、使者を遣わして藩を称え、拝封を兼受した。又、魏とも絶えず。
及齊受東魏禪其王隆亦通使焉淹死子餘昌亦通使命于齊
斉が東魏の禅譲を受けるに及んで、その(百済の)王の隆(百済第25代武寧王 在位502~523)も、亦、使者を通わせた。淹(第26代聖王?)が死に、子の余昌(第27代威徳王 在位554~598)も、亦、使命(使者)を斉に通わせた。
武平元年齊後主以餘昌爲使持節侍中車騎大將軍帶方郡公百濟王如故
武平元年(570)、斉の後主(北朝北斉の第5代皇帝 在位565~577)は、余昌を以て、使持節、侍中、車騎大将軍,帯方郡公、百済王、故(むかし)の如くと為した。
二年又人餘昌爲持節都督東青州諸軍事東青州刺史
二年(571)、又、余昌を以て(人=以?)、持節、都督東青州諸軍事、東青州刺史(青州は山東省の辺り? 東青州は青州の東、南韓の錦江が流れる平野辺り?)と為した。
晋、宋、斉、梁より江左(今の江蘇省辺り?)に拠(よりどころとする)し、亦、使者を遣わして藩を称え、拝封を兼受した。又、魏とも絶えず。
及齊受東魏禪其王隆亦通使焉淹死子餘昌亦通使命于齊
斉が東魏の禅譲を受けるに及んで、その(百済の)王の隆(百済第25代武寧王 在位502~523)も、亦、使者を通わせた。淹(第26代聖王?)が死に、子の余昌(第27代威徳王 在位554~598)も、亦、使命(使者)を斉に通わせた。
武平元年齊後主以餘昌爲使持節侍中車騎大將軍帶方郡公百濟王如故
武平元年(570)、斉の後主(北朝北斉の第5代皇帝 在位565~577)は、余昌を以て、使持節、侍中、車騎大将軍,帯方郡公、百済王、故(むかし)の如くと為した。
二年又人餘昌爲持節都督東青州諸軍事東青州刺史
二年(571)、又、余昌を以て(人=以?)、持節、都督東青州諸軍事、東青州刺史(青州は山東省の辺り? 東青州は青州の東、南韓の錦江が流れる平野辺り?)と為した。