若天慈曲矜遠及無外
若天慈曲矜遠及無外速遣一將來救臣國 若し、天の慈(なさけをかける)しみの極(この上もない 曲(キョク)=極(キョク)?)の矜(あわれみ)が、遠く、無限(むげん 外(ゲ)=限(ゲン)?)に及び、速(すみやかに)く一人の将軍を遣わし、わたしの国を来救(来て救う)してくだされば、 當奉送鄙女執掃後宮並遣子弟收圉外廄尺壤疋夫不敢自有...
View Article獻文以其僻遠冒險入獻
獻文以其僻遠冒險入獻禮遇優厚遣使者邵安與其使俱還 北魏献文帝 (在位465~471)はその遠くを疲(つかれる 僻(ビー)=疲(ヒ)?)れ、危険を冒(おか)して入献したのを以て、礼は優厚に遇し、使者の邵安を遣わしてその使者とともに還した。 詔曰得表聞之無恙卿與高麗不睦至被陵犯苟能順義守之以仁亦何憂於寇讎也...
View Article又詔曰高麗稱籓先朝
又詔曰高麗稱籓先朝供職日久於彼雖有自昔之釁于國未有犯令之愆 又、詔(みことのり)して曰く、「高麗は先朝に藩を称え、貢職(供(グ)=貢(グ)?)する日は久しく、彼(か)に於いて昔よりの釁(仲たがい)が有ると雖も、国においては未だ犯令の愆(あやまち)は有していない。 卿使命始通便求致伐尋討事會理亦未周 卿は命(運命)をして通好を始めようと、便(その機会に)に討伐を致すことを求め、事の怪(あやしみ...
View Article自晉宋齊梁據江左
自晉宋齊梁據江左亦遣使稱籓兼受拜封亦與魏不絕 晋、宋、斉、梁より江左(今の江蘇省辺り?)に拠(よりどころとする)し、亦、使者を遣わして藩を称え、拝封を兼受した。又、魏とも絶えず。 及齊受東魏禪其王隆亦通使焉淹死子餘昌亦通使命于齊 斉が東魏の禅譲を受けるに及んで、その(百済の)王の隆(百済第25代武寧王 在位502~523)も、亦、使者を通わせた。淹(第26代聖王?)が死に、子の余昌(第27代威徳王...
View Article周建六年
周建六年齊滅餘昌始遣使通周 周(北周)建徳六年(577)、斉が滅び、余昌は使者を遣わし周に通い始めた。 宣政元年又遣使爲獻 宣政元年(578)、又、使者を遣わして献を為した。 隋開皇初餘昌又遣使貢方物拜上開府帶方郡公百濟王 隋開皇(581年~600年)の初め、余昌は又、使者を遣わして方物を貢いだ。上開府、帯方郡公、百済王を拝した。 平陳之歲戰船漂至海東耽牟羅國...
View Article文帝善之
文帝善之下詔曰彼國懸隔來往至難自今以後不須年別入貢 隋文帝はこれを善とし、詔(みことのり)を下して曰く、「彼の国は懸隔で、往来は至難である。今より以後、年別の入貢は不須(もとめない)である。」と。 使者舞蹈而去十八年餘昌使其長史王辯那來獻方物 使者は舞蹈(こおどりする)して去った。十八年(598)、余昌はその長史の王辯那を遣わして方物を来献した。 屬興遼東之役遣奉表請爲軍導帝下詔厚其使而遣之...
View Article其年又遣使王孝鄰入獻
其年又遣使王孝鄰入獻請討高麗 その年(607)、又、使者の王孝隣を遣わし入献し、高麗を討つことを請うた。 煬帝許之命覘高麗動靜然餘璋內與高麗通和挾詐以窺中國 隋煬帝はこれを許し、高麗の動静を覘(のぞ)かせた。然るに璋は内(ひそかに)に高麗と和を通じ、挾詐(かくしてあざむく)して中国を窺うを以てした。 七年帝親征高麗餘璋使其臣國智牟來請軍期...
View Article明年六軍度遼
明年六軍度遼餘璋亦嚴兵於境聲言助軍實持兩端 明くる年(612)、六軍は遼(京畿湾?)を渡り、余璋も亦、兵を境に於いて厳重にし、声(ことば)では、軍(六軍)を助けると言い、実は両端(ふたごころ)を持っていた。 尋與新羅有隙每相戰爭 尋(つね)に新羅と隙(なかたがい)が有って、毎(そのたびごと)に互いに戦争した。 十年復遣使朝貢後天下亂使命遂絕...
View Article北史 新羅伝 始め
新羅者其先本辰韓種也 新羅とは、その先は本の辰韓の種である。 地在高麗東南居漢時樂浪地 地は高麗(都は水原市辺り?)の東南に在り、漢時の楽浪地(=洛東地(洛東江が流れる地)? 楽(ラク)=洛(ラク)? 浪(ロウ)=東(トウ)?)に居する。 辰韓亦曰秦韓相傳言秦世亡人避役來適馬韓割其東界居之以秦人故名之曰秦韓 辰韓は亦曰く、秦韓と。相伝は言う、秦世(斉(チー)、または陳(チン)の世?...
View Article又辰韓王常用馬韓人作之
又辰韓王常用馬韓人作之世世相傳辰韓不得自立王明其流移之人故也恆爲馬韓所制 又、辰韓王は常に馬韓人を用いてこれを作り、世々(代々)相伝し、辰韓は自ら王を立てることはできない。その流移の人故(ゆえ)を明らかにするのであり、恒(つね)に馬韓の制する所と為った。 辰韓之始有六國稍分爲十二新羅則其一也 辰韓の始めは六国が有った。稍(次第に)分かれて十二に為り、新羅は則ちその一つである。...
View Article其人雜有華夏高麗百濟之屬
其人雜有華夏高麗百濟之屬兼有沃沮不耐韓滅之地其王本百濟人自海逃入新羅遂王其國 その人は華夏、高麗、百済の属を雑(まじる)し、沃沮、不耐、韓、滅(濊?)の地を兼有する。その王は本(もと)は百済人で、海より新羅に逃げ入り、遂にその国で王になった。 初附庸於百濟百濟征高麗不堪戎役後相率歸之遂致強盛 初めは、百済に附庸していた。百済が高麗を征(攻める)したとき(高句麗故国原王 在位331~371...
View Article其官有十七等
其官有十七等一曰伊罰幹貴如相國 その官には十七等が有り、その一は曰く、伊罰干と。貴(身分が高い)は相国の如し。 次伊尺幹次迎幹次破彌幹次大阿尺幹次阿尺幹次乙吉幹次沙咄幹次及伏幹次大奈摩幹次奈摩次大舍次小舍次起士次大烏次小烏次造位...
View Article風俗刑政衣服略與高麗百濟同
風俗刑政衣服略與高麗百濟同 その風俗、刑政、衣服は高麗、百済と略(ほぼ)同じである。每月旦相賀王設宴會班賚群官其日拜日月神主八月十五日設樂令官人射賞以馬布 毎月の旦(一日)に、相賀し、王は宴会を設け、群官を班賓(あまねくもてなす)する。その日は、日(太陽)月の神主に拝する。八月十五日に楽を設け、官人に射撃を令し、賞は馬、布を以てする。 其有大事則聚官詳議定之服色尚畫素婦人辮髪繞頸以雜彩及珠爲飾...
View Article婚嫁禮唯酒食而已
婚嫁禮唯酒食而已輕重隨貧富新婦之夕女先拜舅姑次即拜大兄夫 婚嫁の礼は唯(ただ)、酒食にしてそれのみで、軽重は貧富に随する。新婦の夕方には、女は先に舅姑に拝し、次は即ち大兄、夫に拝する。 死有棺斂葬送起墳陵王及父母妻子喪居服一年 死ぬと、棺斂(棺におさめる)が有り、葬送は墳陵を起こす。王及び父母妻子の喪は、服喪に居するは一年。 田甚良沃水陸兼種其五穀果菜鳥獸物產略與華同...
View Article北史 勿吉伝 始め
勿吉國在高句麗北一曰靺鞨邑落各自有長不相總一 勿吉国は高句麗(京畿道の辺り?)の北に在り、一に曰く靺鞨と(おそらくピョンヤンの東北辺り?)。邑落は各自、長が有り、総一(まとめて一つにする)を相(かたち)さず。 其人勁悍於東夷最強言語獨異...
View Article其部類凡有七種
其部類凡有七種其一號粟末部與高麗接勝兵數千多驍武每寇高麗 その部類は凡そ七種有る。その一は号して粟末部と。高麗と接し、勝兵(強い兵)は数千、驍武(強くたけだけしい)が多く、いつも高麗を寇する。 其二伯咄部在粟末北勝兵七千 その二は伯咄部で、粟末の北に在り、勝兵は七千。 其三安車骨部在伯咄東北 その三は安車骨部で、伯咄の東北に在る。 其四拂涅部在伯咄東 その四は拂涅部で、伯咄の東に在る。...
View Article所居多依山水
所居多依山水渠帥曰大莫弗瞞咄 居する所は多くが山、水(川)に依る。渠帥は曰く、大莫弗瞞咄と。 國南有從太山者華言太皇俗甚敬畏之人不得山上溲汙行經山者以物盛去 国の南には従太山という者が有り、中華の言葉で太皇(=太(大)峰?(はなはだしい峰々の意 おそらくクムガン山?) 皇(ホワン)=峰(ホウ)?)と。俗は甚だこれを敬い畏(おそ)れる。人は、山の上で、溲便(小便と大便をする...
View Article其國無牛有馬車則步推相與偶耕
其國無牛有馬車則步推相與偶耕 その国は牛(音が同じの農具の一種?)が無く、鋤耙(すきとまぐわ 車(チョー)=鋤(チュー)? 馬(バ)=耙(バー)?)が有り、鋤(すきでたがやす 車(チョー)=鋤(チュー)?)すれば則ち耙(まぐわでたがやす 歩(ブ)=耙(バー)?)が推(移り変わる (あとにつづいておこなう))し、相(あい)ともに偶耕(二人並んでたがやす)する。...
View Article俗以溺洗手面于諸夷最爲不潔
俗以溺洗手面于諸夷最爲不潔 俗は溺(尿)を以て手、面(かお)を洗う(アンモニアは油分を落とすそうです)。諸(もろもろ)の夷において、最も不潔と為す。 初婚之夕男就女家執女乳而罷妒其妻外淫人有告其夫夫輒殺妻而後悔必殺告者由是姦淫事終不發...
View Article煮毒藥氣亦能
煮毒藥氣亦能殺人其父母春夏死立埋之塚上作屋令不雨濕若秋冬死以其屍捕貂貂食其肉多得之 薬を煮ると毒気は亦(また)、人を殺すことができる。その父母が春、夏に死ねば、立(たちどころに)にこれを埋めて、上に塚をつくり屋根を作って、雨にぬれないようにする。若し秋冬に死ねば、その屍を以て、貂(おそらくキエリテン?)を捕らえる。貂はその肉を食べ、これを多く得る。 延興中遣乙力支朝獻太和初又貢馬五百匹...
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