自云其國先破高句麗十落
自云其國先破高句麗十落密共百濟謀從水道並力取高麗遣乙力支奉使大國謀其可否 自ら云う、その国は先に高句麗(都は水原市?)の十部落を破り、密かに百済(都は論山市の西の江景(カンギョン)?)と謀(はかりごと)を共にし、水(川)の道より力を併(あわせる 並(へい)=併(ヘイ)?)せて高麗を取った。乙力支を遣わし大国に奉使させ、その可否を謀(たずねる)すると。 詔敕三國同是籓附宜共和順勿相侵擾乙力支乃還...
View Article九年復遣使侯尼支朝
九年復遣使侯尼支朝明年復入貢 九年(485)、復(また)、使者の侯尼支を遣わし朝させた。明くる年(486)、復(また)入貢した。 其傍有大莫盧國覆鐘國莫多回國庫婁國素和國具弗伏國匹黎爾國拔大何國郁羽陵國庫伏真國魯婁國羽真侯國前後各遣使朝獻...
View Article景明四年復遣使侯力歸朝貢
景明四年復遣使侯力歸朝貢自此迄於正光貢使相尋 景明四年(503)、復(また)、使者の侯力帰を遣わし朝貢した。此れより正光(520~525)に於いて迄(まで)、貢使は相尋(つぎつぎに訪問する)した。 爾後中國紛擾頗或不至 爾後(その後)、中国が紛擾(紛争)し、頗(少なくなる)、或いは至らず。 興和二年六月遣石文雲等貢方物以至於齊朝貢不絕...
View Article對曰臣等僻處一方
對曰臣等僻處一方聞內國有聖人故來朝拜既親奉聖顏願長爲奴僕 応えて曰く、「わたしたちは、一方に僻処(いなかに住む)し、内国に聖人がいると聞き、故(ゆえ)に朝拝に来ました。既に聖顔を親奉し、願わくば長く奴僕と為らんことを」と。 其國西北與契丹接每相劫掠後因其使來文帝誡之使勿相攻擊...
View Article煬帝初與高麗戰
煬帝初與高麗戰頻敗其衆渠帥突地稽率其部降拜右光祿大夫居之柳城 煬帝(在位604~618)の初め頃、高麗と戦い、頻(たびたび)その衆を負(たのみにする 敗(バイ)=負(ブ)?)した。渠帥の突地稽は、その部落を率いて効(力をつくす降(コウ)=効(コウ)?)したので、右光祿大夫に拝し、柳城にこれを居させた。 與邊人來往中國風俗請被冠帶帝嘉之賜以錦綺而褒寵之...
View Article北史 奚伝 始め
奚本曰庫莫奚其先東部胡宇文之別種也 奚は、本(もと)は曰く、庫莫奚と。その先祖は東部胡の宇文(音と風俗よりエベン、またはエベンキ?(ツングース系民族 匈奴の宇文氏とは民族が異なると思います)の別種である。 初爲慕容晃所破遺落者竄匿松漠之間...
View Article帝曰此群狄諸種不識義
帝曰此群狄諸種不識義鼠竊狗盜何足爲患 帝(北魏初代皇帝道武帝)は曰く、「此の群狄諸種は徳義を識(知る)さず、鼠竊狗盜(ねずみや狗のようなこそどろ)でありどうして患いと為すに足るだろうか。 今中州大亂吾先平之然後張其威懷則無所不服矣 今、中州は大いに乱れ、吾は先にこれを平らげる。然る後、その威懐を張れば、則ち、服さないところは無いだろう。」と。 既而車駕南遷十數年間諸種與庫莫奚亦皆滋盛...
View Article文成獻文之世
文成獻文之世庫莫奚歲致名馬文皮 文成帝(在位452~465)、献文帝(在位465~471)の世に、庫莫奚は歳に卑馬(背の低い馬 名(ベイ)=卑(ベイ)? 牛馬を飼育するツングースはソロンと呼ばれたそうです)、文(蜚(犭+眉)と書けてタイリクイタチ(チョウセンイタチ)?山海経より 文(ブン)=犭+眉(ビ)?)の毛皮を致(送る)した。 孝文初遣使朝貢太和四年輒入塞內辭以畏地豆幹抄掠詔書切責之...
View Article宣武詔曰
宣武詔曰庫莫奚去太和二十一年以前與安營二州邊人參居 北魏宣武帝(在位499~515)は詔して曰く、「庫莫奚は去る太和二十一年(497)以前は、安州、営州の二州の辺人と参居(入り混じって住む)し、 交易往來並無欺貳至二十二年叛逆以來遂爾遠竄 交易に往来し、並びに欺貳(あざむく)は無し。二十二年(498)に至り、叛逆して以来、遂(つい)に爾(なんじ)は遠竄(遠く姿をくらます)した。...
View Article其後種類漸多分爲五部
其後種類漸多分爲五部一曰辱紇主二曰莫賀弗三曰契個四曰木昆五曰室得 その後、種類は漸(次第に)多くなり、分かれて五部を為した。一に曰く、辱紇主。二に曰く、莫賀弗。三に曰く、契個。四に曰く、木昆。五に曰く、室得と。每部俟斤一人爲其帥隨逐水草頗同突厥有阿會氏五部中最盛諸部皆歸之...
View Article北史 契丹国伝 始め
契丹國在庫莫奚東與庫莫奚異種同類 契丹国(おそらく場所と風俗からツングース系? 後の遼朝の契丹人とは同音で、異系統だと思います。)は、庫莫奚の東に在り(おそらく北朝鮮ヒチョン(熙川)辺り?)、庫莫奚と異種同類である。 並爲慕容晃所破俱竄於松漠之間 並(契丹と庫莫奚)びに慕容晃(遼寧省の鮮卑人...
View Article梁書 文身国伝 始め
北史契丹伝の途中ですか、梁書の倭国伝の次にある文身国、大漢国、扶桑国の和訳が抜けておりましたので、今日から数日間、訳してみたいと思います。 文身國在倭國東北七千餘里 文身国は、倭国(おそらく都は大牟田辺り?)の東北七千里(一里150m換算で約1050厖召蝓,そらく広島辺り?)に在る。 人體有文如獸其額上有三文文直者貴文小者賤...
View Article梁書 大漢国、扶桑国伝 始め
大漢國在文身國東五千餘里無兵戈不攻戰風俗並與文身國同而言語異 大漢国(大阪国と書けて、おそらく大阪? 漢(ハン)=阪(ハン)? )は、文身国(広島辺り?)の東に五千余里(一里150m換算で約750厖召蝓砲忘澆襦J蛇癖軸錙砲鰐気、攻戦はしない。風俗は並(みな)、文身国と同じであるが、言語が異なる。 扶桑國者齊永元元年其國有沙門慧深來至荊州 扶桑国(穀桑(穀(二種類あります)はコウゾの意...
View Article作板屋無城郭
作板屋無城郭有文字以扶桑皮爲紙 板の屋(いえ)を作り、城郭は無い。文字が有って、扶桑(カジノキまたはコウゾ?)の皮を以て紙をつくる。 無兵甲不攻戰其國法有南北獄 兵甲(武器武具)は無く、攻戦しない。その国の法は、南北の獄が有る。 若犯輕者入南獄重罪者入北獄有赦則赦南獄不赦北獄 軽犯者のごとくは南獄に入り、重罪者は北獄に入る。恩赦が有れば南獄を赦(ゆる)し、北獄は赦さない。...
View Article名國王爲乙祁
名國王爲乙祁貴人第一者爲大對盧第二者爲小對盧第三者爲納咄沙 国王を名付けて乙祁と為す。貴人の第一者は大対盧、大二者は小対盧、第三者は納咄沙と為す。 國王行有鼓角導從其衣色隨年改易甲乙年青丙丁年赤戊己年黃庚辛年白壬癸年 国王の行(巡行)には鼓(つづみ)角(つのぶえ)をふくもの、導從(みちびき従うもの)がいる。 その衣の色は年に随して改易し、甲乙年は青、丙丁年は赤、戊己年は黄、庚辛年は白、壬癸年は黒。...
View Article其婚姻婿往女家門外作屋
其婚姻婿往女家門外作屋晨夕灑掃經年而女不卽驅之相乃成婚 その婚姻は、婿が女の家の門外に往き、屋(いえ)を作る。晨(早朝)と夕方に灑掃(水をまいて掃除する)し、年を経て、而して、女が悦ばなければ、即これを駆(追い立てる)し、互いに悦べば乃ち成婚する。 婚禮大抵與中國同親喪七日不食祖父母喪五日不食兄弟伯叔姑姊妹三日不食...
View Article慧深又云扶桑東千餘里有女國
慧深又云扶桑東千餘里有女國容貌端正色甚潔白身體有毛髮長委地 慧深は又、云う、「扶桑(おそらく奈良?)の東に一千余里(一里150m換算で約150厖召蝓砲傍躪顱覆Δ靴里に 女(ニュイ)=牛(ニウ)?)がある(おそらく三重県松阪市辺り? 牛の名産地です)。容貌は端正で、色は甚だ潔白(漆黒?)で、身体には毛が有り、尾(お 髪(ハツ)=尾(ビ)は長く委地(地にたれる)する。 至二三月競入水則任娠六七月產子...
View Article北史 契丹伝 つづき
歸而相謂言國家之美心皆忻慕於是東北群狄聞之莫不思服 帰りて互いに謂った、国家の美を言い、心は皆、忻慕(よろこびしたう)したと。ここに於いて東北の群狄は服すを思わざるはなし。 悉萬丹部何大何部伏弗鬱部羽陵部日連部匹潔部黎部吐六幹部等各以其名馬文皮獻天府 悉万丹部、何大何部、伏弗鬱部、羽陵部、日連部、匹潔部、黎部、吐六幹部らは各(おのおの)、その卑馬(背の低い馬...
View Article契丹舊怨其侵軼
契丹舊怨其侵軼其莫賀弗勿幹率其部落車三千乘衆萬餘口驅徙雜畜求內附止于白狼水東 契丹はその侵軼(侵し攻撃する)を恐怨(おそれうらむ 旧(キュウ)=恐(キョウ)?)し、その莫賀弗勿幹はその部落、車三千乗、衆万余人を率い、雑畜を駆徙(追い立てて移す)し内附を求め、白狼水の東に止まった。 自此歲常朝貢後告饑孝文聽其入關市糴 此の歳より常に朝貢した。後、饑(飢饉)を告げ、孝文帝はその入関して市糴を聴きいれた。...
View Article天保四年九月契丹犯塞
天保四年九月契丹犯塞文宣帝親戎北討 天保四年(553)九月、契丹が塞を犯し、文宣帝は、親(みずから)北討に戎(いくさ)した。 至平州遂西趣長塹詔司徒潘相樂帥精騎五千自東道趣青山 平州に至り、遂に西に長塹に趣いた。詔(みことのり)して、司徒潘相楽は精騎五千を帥(=率 ひきいる)して、東道より青山に趣いた。 復詔安王韓軌帥精騎四千東趣斷契丹走路帝親逾山嶺奮擊大破之虜十餘萬口雜畜數十萬頭...
View Article