天保四年九月契丹犯塞文宣帝親戎北討
天保四年(553)九月、契丹が塞を犯し、文宣帝は、親(みずから)北討に戎(いくさ)した。
至平州遂西趣長塹詔司徒潘相樂帥精騎五千自東道趣青山
平州に至り、遂に西に長塹に趣いた。詔(みことのり)して、司徒潘相楽は精騎五千を帥(=率 ひきいる)して、東道より青山に趣いた。
復詔安王韓軌帥精騎四千東趣斷契丹走路帝親逾山嶺奮擊大破之虜十餘萬口雜畜數十萬頭
復(また)、詔(みことのり)して安徳王韓軌は精騎四千をひきいて東に趣き、契丹の走路(逃げ道)を断った。帝は親(みずから)山嶺を逾(こえる)し、奮撃してこれを大破し、十余万人、雑畜数十万頭を虜にした。
相樂又于青山大破契丹別部所虜生口皆分置諸州其後復爲突厥所逼又以萬家寄於高麗
相楽は又、青山で契丹の別部を大破した。虜にした所の生口は、皆、諸州に分けて置いた。その後、復(また)、突厥の逼(追い立てる)する所と為って、又、万家を以て高麗に寄せた。
其俗與靺鞨同好爲寇盜父母死而悲哭者以爲不壯但以其屍置於山樹之上經三年後乃收其骨而焚之
その俗は靺鞨と同じで、寇盜を為すことを好む。父母が死ぬと悲哭すれば、葬(ほうむる 壮(ソウ)=葬(ソウ)?)さずを為すを以てする。但(ただ)、その屍を以て山の樹の上に置き、三年を経て後、乃ち、その骨を収めてこれを焚(やく)する。
因酌酒而祝曰冬月時向陽食若我射獵時使我多得豬鹿其無禮頑囂于諸夷最甚
因りて、酒を酌(く)んで、祝(いのる)して曰く、「冬月時は陽(太陽)に向かって射(いる 食(ショク)=射(シャ)?)る。若し、我が射猟をした時には、我をして豬、鹿を多く得させるように」と。その礼が無く、頑囂(かたくななこと)さは、諸夷において最も甚だしい。
天保四年(553)九月、契丹が塞を犯し、文宣帝は、親(みずから)北討に戎(いくさ)した。
至平州遂西趣長塹詔司徒潘相樂帥精騎五千自東道趣青山
平州に至り、遂に西に長塹に趣いた。詔(みことのり)して、司徒潘相楽は精騎五千を帥(=率 ひきいる)して、東道より青山に趣いた。
復詔安王韓軌帥精騎四千東趣斷契丹走路帝親逾山嶺奮擊大破之虜十餘萬口雜畜數十萬頭
復(また)、詔(みことのり)して安徳王韓軌は精騎四千をひきいて東に趣き、契丹の走路(逃げ道)を断った。帝は親(みずから)山嶺を逾(こえる)し、奮撃してこれを大破し、十余万人、雑畜数十万頭を虜にした。
相樂又于青山大破契丹別部所虜生口皆分置諸州其後復爲突厥所逼又以萬家寄於高麗
相楽は又、青山で契丹の別部を大破した。虜にした所の生口は、皆、諸州に分けて置いた。その後、復(また)、突厥の逼(追い立てる)する所と為って、又、万家を以て高麗に寄せた。
其俗與靺鞨同好爲寇盜父母死而悲哭者以爲不壯但以其屍置於山樹之上經三年後乃收其骨而焚之
その俗は靺鞨と同じで、寇盜を為すことを好む。父母が死ぬと悲哭すれば、葬(ほうむる 壮(ソウ)=葬(ソウ)?)さずを為すを以てする。但(ただ)、その屍を以て山の樹の上に置き、三年を経て後、乃ち、その骨を収めてこれを焚(やく)する。
因酌酒而祝曰冬月時向陽食若我射獵時使我多得豬鹿其無禮頑囂于諸夷最甚
因りて、酒を酌(く)んで、祝(いのる)して曰く、「冬月時は陽(太陽)に向かって射(いる 食(ショク)=射(シャ)?)る。若し、我が射猟をした時には、我をして豬、鹿を多く得させるように」と。その礼が無く、頑囂(かたくななこと)さは、諸夷において最も甚だしい。