隋開皇四年率莫賀弗來謁五年悉其衆款塞文帝納之聽居其故地
隋開皇四年(584)、帥(率(スイ)=帥(スイ)?)の莫賀弗来が謁(まみえる)した。五年(585)、悉(ことごと)くその衆が塞に款(いたる)した。文帝はこれを納(引き入れる)め、その故地に居することを聴き入れ、
責讓之其國遣使詣闕頓顙謝罪其後契丹別部出伏等背高麗率衆內附
これを責讓(せめとがめる)した。その国は使者を遣わして闕に詣で、頓顙(頓首?)して謝罪した。その後、契丹の別部の出伏らが高麗に背(そむ)き、衆を率いて内附した。
文帝見來憐之上方與突厥和好重失遠人之心悉令給糧還本部敕突厥撫納之
文帝は来(莫賀弗来)に見(まみ)え、これを憐れんだ。上は方(まさ)に突厥と和好せんとしており、遠人の心を失(そこなう)なうことを重(おそれる)し、悉く令して食料を給わり本(もと)の部に還させ、突厥に敕(みことのり)して、これを撫納(なでおさめる)させたが、
固辭不去部落漸衆遂北徙逐水草當遼西正北二百里依託紇臣水而居東西亙三百里分爲十部
固辞して去らず。部落は漸(しだいに)に愁(うれえる 衆(シュウ)=愁(シュウ)?)し、遂に北へ徙(移る)して、水(川)、草を逐(追い求める)し、当(まさ)に遼西(おそらく京畿湾の西の黄海南道辺り?)の正西(真西?)二百里(一里150m換算で約30辧砲梁紇臣水(川名)に依りて居した。東西は方三百里(一里150m換算で約45匯擁仝漾淵奸次法疂淵曠Α法)、分かれて十の部落をつくった。
兵多者三千少者千餘逐寒暑隨水草畜牧有征伐則曾帥相與議之興兵動衆合如符契
兵の多いところは三千人、少ないところは一千人余り。寒暑を遂(心配するさま)し、水(川)、草に随して畜牧した。征伐が有って、則ち、曾帥は相(あい)ともにこれを議し、兵を興して衆を動かし、符契(割符)の如くを合わせた。
突厥沙缽略可汗遣吐屯潘垤統之契丹殺吐屯而遁大業七年遣使朝貢方物
突厥の沙缽略可汗は吐屯潘垤を遣わしてこれを統べらせた。契丹は吐屯を殺して遁(逃げる)した。大業七年(611)、使者を遣わして、方物を貢いだ。
今日で北史 契丹伝は終わりです。明日からは北史 室韋伝に入ります。
隋開皇四年(584)、帥(率(スイ)=帥(スイ)?)の莫賀弗来が謁(まみえる)した。五年(585)、悉(ことごと)くその衆が塞に款(いたる)した。文帝はこれを納(引き入れる)め、その故地に居することを聴き入れ、
責讓之其國遣使詣闕頓顙謝罪其後契丹別部出伏等背高麗率衆內附
これを責讓(せめとがめる)した。その国は使者を遣わして闕に詣で、頓顙(頓首?)して謝罪した。その後、契丹の別部の出伏らが高麗に背(そむ)き、衆を率いて内附した。
文帝見來憐之上方與突厥和好重失遠人之心悉令給糧還本部敕突厥撫納之
文帝は来(莫賀弗来)に見(まみ)え、これを憐れんだ。上は方(まさ)に突厥と和好せんとしており、遠人の心を失(そこなう)なうことを重(おそれる)し、悉く令して食料を給わり本(もと)の部に還させ、突厥に敕(みことのり)して、これを撫納(なでおさめる)させたが、
固辭不去部落漸衆遂北徙逐水草當遼西正北二百里依託紇臣水而居東西亙三百里分爲十部
固辞して去らず。部落は漸(しだいに)に愁(うれえる 衆(シュウ)=愁(シュウ)?)し、遂に北へ徙(移る)して、水(川)、草を逐(追い求める)し、当(まさ)に遼西(おそらく京畿湾の西の黄海南道辺り?)の正西(真西?)二百里(一里150m換算で約30辧砲梁紇臣水(川名)に依りて居した。東西は方三百里(一里150m換算で約45匯擁仝漾淵奸次法疂淵曠Α法)、分かれて十の部落をつくった。
兵多者三千少者千餘逐寒暑隨水草畜牧有征伐則曾帥相與議之興兵動衆合如符契
兵の多いところは三千人、少ないところは一千人余り。寒暑を遂(心配するさま)し、水(川)、草に随して畜牧した。征伐が有って、則ち、曾帥は相(あい)ともにこれを議し、兵を興して衆を動かし、符契(割符)の如くを合わせた。
突厥沙缽略可汗遣吐屯潘垤統之契丹殺吐屯而遁大業七年遣使朝貢方物
突厥の沙缽略可汗は吐屯潘垤を遣わしてこれを統べらせた。契丹は吐屯を殺して遁(逃げる)した。大業七年(611)、使者を遣わして、方物を貢いだ。
今日で北史 契丹伝は終わりです。明日からは北史 室韋伝に入ります。