文帝善之下詔曰彼國懸隔來往至難自今以後不須年別入貢
隋文帝はこれを善とし、詔(みことのり)を下して曰く、「彼の国は懸隔で、往来は至難である。今より以後、年別の入貢は不須(もとめない)である。」と。
使者舞蹈而去十八年餘昌使其長史王辯那來獻方物
使者は舞蹈(こおどりする)して去った。十八年(598)、余昌はその長史の王辯那を遣わして方物を来献した。
屬興遼東之役遣奉表請爲軍導帝下詔厚其使而遣之
属(たまたま)、遼東(インチョン辺り?)の役が興(おこ)り、奉表を遣わし、軍の導きを為すことを請うた。帝は詔を下し、その使者を厚くしてこれを遣わした。
高麗頗知其事兵侵其境余昌死子餘璋立大業三年餘璋遣使燕文進朝貢
高麗は頗るその事を知り、兵はその(百済の)境を侵した。余昌が死に、子の余璋が立った。大業三年(607)、余璋は使者の燕文進を遣わし朝貢した。
隋文帝はこれを善とし、詔(みことのり)を下して曰く、「彼の国は懸隔で、往来は至難である。今より以後、年別の入貢は不須(もとめない)である。」と。
使者舞蹈而去十八年餘昌使其長史王辯那來獻方物
使者は舞蹈(こおどりする)して去った。十八年(598)、余昌はその長史の王辯那を遣わして方物を来献した。
屬興遼東之役遣奉表請爲軍導帝下詔厚其使而遣之
属(たまたま)、遼東(インチョン辺り?)の役が興(おこ)り、奉表を遣わし、軍の導きを為すことを請うた。帝は詔を下し、その使者を厚くしてこれを遣わした。
高麗頗知其事兵侵其境余昌死子餘璋立大業三年餘璋遣使燕文進朝貢
高麗は頗るその事を知り、兵はその(百済の)境を侵した。余昌が死に、子の余璋が立った。大業三年(607)、余璋は使者の燕文進を遣わし朝貢した。