烏桓自為冒頓所破眾遂孤弱常臣伏匈奴歲輸牛馬羊皮過時不具輒沒其妻子
烏桓は冒頓の破る所と為ってより、衆は遂に孤弱になり、常に匈奴に臣伏し、歳に牛馬、羊の皮を輸(送る)し、過(あやまる)して時に貢(みつぐ 具(グ)=貢(グ)?)がないと、輒(たちまち)、その妻子を没した。
及武帝遣驃騎將軍霍去病擊破匈奴左地因徙烏桓於上谷漁陽右北平遼西遼東五郡塞外為漢偵察匈奴動靜
漢武帝が驃騎將軍霍去病を遣わして、匈奴の左地(東地)を撃破した。因りて、烏桓は上谷(おそらく張家口市(チャンチャコウ)?)、漁陽(おそらく北京市の東北の密雲(ミーユン)辺り?)、右北平(おそらく北京市(北京の古い呼び名は北平)の西と読めて懐来(ホワイライ)辺り?)、遼西(おそらく遼寧省朝陽市(チャオヤン)辺り?)、遼東(おそらく遼寧省鞍山市(アンシャン)辺り?)の五つの郡の塞(とりで)の外に徙(移る)し、漢の為に匈奴の動静を偵察した。
其大人歲一朝見於是始置護烏桓校尉秩二千石擁節監領之使不得與匈奴交通
その大人は歳に一度朝見する。ここに於いて護烏桓校尉を置くことを始め、秩(給料)は二千石、節(割符)を擁(いだく)して、これを監領(つかさどる)し、匈奴と交通することをさせなかった。
昭帝時烏桓漸強乃發匈奴單于冢墓以報冒頓之怨
昭帝時(漢昭帝在位前87~前74)、烏桓は漸(しだいに)、強くなり、乃ち、匈奴単于の冢墓を発(あばく)して、冒頓の怨に報いるを以てした。
匈奴大怒乃東擊破烏桓大將軍霍光聞之因遣度遼將軍范明友將二萬騎出遼東邀匈奴而虜已引去
匈奴は大いに怒り、乃ち、東に烏桓を撃破した。大将軍霍光はこれを聞き、因りて、度遼將軍范明友を遣わし、二万騎を将(ひきいる)して、遼東(大シンアンリン山脈の東?)に出でて、匈奴を邀(まちぶせる)そうとしたが、虜(敵)は已(すでに)、引き去っていた。
明友乘烏桓新敗遂進擊之斬首六千餘級獲其三王首而還由是烏桓復寇幽州明友輒破之宣帝時乃稍保塞降附
明友は烏桓の侵冒(おかす 新敗(シンバイ)=侵冒(シンボウ)?)に乗じて、遂にこれに進撃し、斬首六千余級、その三人の王の首を獲って還った。是に由りて、烏桓は復(また)、幽州を寇した。明友は輒(そのたびごとに)、これを破った。宣帝時(在位前74~前49)、乃ち、稍(ようやく)、塞を保(まもる)して降附した。
及王莽篡位欲擊匈奴興十二部軍使東域將嚴尤領烏桓丁令兵屯代郡皆質其妻子於郡縣
王莽が位を簒奪するに及んで(8年)、匈奴を撃つことを欲し、十二部軍を興し、東域将嚴尤をつかわし、烏桓を領(おさめる)させ、丁令(通遼市辺り 音より)の兵は代郡に屯し、皆、郡県に於いてその妻子を質にした。
烏桓不便水土懼久屯不休數求謁去莽不肯遣遂自亡畔還為抄盜而諸郡盡殺其質由是結怨於莽
烏桓は水土(山土?)に便(習熟している)さず、久しく屯して休まずを懼(おそ)れ、数(たびたび)、去ることを求謁(求める)した。王莽は遣(釈放する)することを不肯(承知しない)とし、遂に自ら謀反(むほん 亡畔(ボウハン)=謀反(ボウハン)?)し、還りながら抄盜を為した。而して、諸郡は尽くその質を殺し、是に由(よ)りて、王莽に怨(うらみ)を結んだ。
匈奴因誘其豪帥以為吏餘者皆羈縻屬之
匈奴は因りて、その豪帥を誘って吏と為すを以てした。余(ほか)の者は皆、羈縻(つなぎとめる)してこれに属させた。
烏桓は冒頓の破る所と為ってより、衆は遂に孤弱になり、常に匈奴に臣伏し、歳に牛馬、羊の皮を輸(送る)し、過(あやまる)して時に貢(みつぐ 具(グ)=貢(グ)?)がないと、輒(たちまち)、その妻子を没した。
及武帝遣驃騎將軍霍去病擊破匈奴左地因徙烏桓於上谷漁陽右北平遼西遼東五郡塞外為漢偵察匈奴動靜
漢武帝が驃騎將軍霍去病を遣わして、匈奴の左地(東地)を撃破した。因りて、烏桓は上谷(おそらく張家口市(チャンチャコウ)?)、漁陽(おそらく北京市の東北の密雲(ミーユン)辺り?)、右北平(おそらく北京市(北京の古い呼び名は北平)の西と読めて懐来(ホワイライ)辺り?)、遼西(おそらく遼寧省朝陽市(チャオヤン)辺り?)、遼東(おそらく遼寧省鞍山市(アンシャン)辺り?)の五つの郡の塞(とりで)の外に徙(移る)し、漢の為に匈奴の動静を偵察した。
其大人歲一朝見於是始置護烏桓校尉秩二千石擁節監領之使不得與匈奴交通
その大人は歳に一度朝見する。ここに於いて護烏桓校尉を置くことを始め、秩(給料)は二千石、節(割符)を擁(いだく)して、これを監領(つかさどる)し、匈奴と交通することをさせなかった。
昭帝時烏桓漸強乃發匈奴單于冢墓以報冒頓之怨
昭帝時(漢昭帝在位前87~前74)、烏桓は漸(しだいに)、強くなり、乃ち、匈奴単于の冢墓を発(あばく)して、冒頓の怨に報いるを以てした。
匈奴大怒乃東擊破烏桓大將軍霍光聞之因遣度遼將軍范明友將二萬騎出遼東邀匈奴而虜已引去
匈奴は大いに怒り、乃ち、東に烏桓を撃破した。大将軍霍光はこれを聞き、因りて、度遼將軍范明友を遣わし、二万騎を将(ひきいる)して、遼東(大シンアンリン山脈の東?)に出でて、匈奴を邀(まちぶせる)そうとしたが、虜(敵)は已(すでに)、引き去っていた。
明友乘烏桓新敗遂進擊之斬首六千餘級獲其三王首而還由是烏桓復寇幽州明友輒破之宣帝時乃稍保塞降附
明友は烏桓の侵冒(おかす 新敗(シンバイ)=侵冒(シンボウ)?)に乗じて、遂にこれに進撃し、斬首六千余級、その三人の王の首を獲って還った。是に由りて、烏桓は復(また)、幽州を寇した。明友は輒(そのたびごとに)、これを破った。宣帝時(在位前74~前49)、乃ち、稍(ようやく)、塞を保(まもる)して降附した。
及王莽篡位欲擊匈奴興十二部軍使東域將嚴尤領烏桓丁令兵屯代郡皆質其妻子於郡縣
王莽が位を簒奪するに及んで(8年)、匈奴を撃つことを欲し、十二部軍を興し、東域将嚴尤をつかわし、烏桓を領(おさめる)させ、丁令(通遼市辺り 音より)の兵は代郡に屯し、皆、郡県に於いてその妻子を質にした。
烏桓不便水土懼久屯不休數求謁去莽不肯遣遂自亡畔還為抄盜而諸郡盡殺其質由是結怨於莽
烏桓は水土(山土?)に便(習熟している)さず、久しく屯して休まずを懼(おそ)れ、数(たびたび)、去ることを求謁(求める)した。王莽は遣(釈放する)することを不肯(承知しない)とし、遂に自ら謀反(むほん 亡畔(ボウハン)=謀反(ボウハン)?)し、還りながら抄盜を為した。而して、諸郡は尽くその質を殺し、是に由(よ)りて、王莽に怨(うらみ)を結んだ。
匈奴因誘其豪帥以為吏餘者皆羈縻屬之
匈奴は因りて、その豪帥を誘って吏と為すを以てした。余(ほか)の者は皆、羈縻(つなぎとめる)してこれに属させた。