光武初烏桓與匈奴連兵為寇代郡以東尤被其害
後漢光武帝(在位25~57)の初め頃、烏桓は匈奴と兵を連ねて寇を為し、代郡以東は尤(もっと)もその害を被った。
居止近塞朝發穹廬暮至城郭五郡民庶家受其辜至於郡縣損壞百姓流亡其在上谷塞外白山者最為強富
塞の近くに止まって居し、朝、穹廬(匈奴の家)を出発して、暮れに城郭に至った。五郡の民の庶家(多くの家)がその害(わざわい 辜(クー)=害(ホー)?)を受けた。郡県は損壊に至り、百姓は流亡した。その上谷(張家口市辺り?)の塞の外に在る白山という者は、最も強富と為った。
建武二十一年遣伏波將軍馬援將三千騎出五阮關掩擊之
建武二十一年(45)、伏波将軍馬援を遣わし、三千騎を将(ひきいる)して五阮関に出で、これを掩擊(ふいを撃つ)した。
烏桓逆知悉相率逃走追斬百級而還烏桓復尾擊援後援遂晨夜奔歸比入塞馬死者千餘匹
烏桓は逆(あらかじめ)に知り、悉く相率いて逃走した。追って百級を斬って還った。烏桓は復(また)、馬援の後ろを尾行して撃った。馬援は遂に 晨夜(朝から夜まで)奔帰した。塞に入る比(ころ)には、馬の死者は千余匹。
二十二年匈奴國亂烏桓乘弱擊破之匈奴轉北徙數千里漠南地空帝乃以幣帛賂烏桓
二十二年(46)、匈奴の国が乱れ、烏桓は弱に乗じてこれを撃破した。匈奴は転じて北へ数千里(一里150m換算で約750辧腺坑娃悪辧砲鰈弌憤椶襦砲掘∈叔瞭遒涼呂篭覆ら)になった。帝は乃ち、幣帛を以て烏桓に賂(贈る)した。
二十五年遼西烏桓大人郝旦等九百二十二人率眾向化詣闕朝貢獻奴婢牛馬及弓虎豹貂皮
二十五年(49)、遼西烏桓大人郝旦ら九百二十二人が衆を率いて華(中国 化(カ)=華(カ)?)に向かい、闕に詣でて朝貢した。奴婢、牛馬、及び狐(きつね 弓(ク)=狐(コ)?)、虎、豹、貂の毛皮を献じた。
是時四夷朝賀絡驛而至天子乃命大會勞饗賜以珍寶
この時、四夷は朝賀し、駅を絡(つなげる)して至った。天子は乃ち、大会を命じて労饗し、賜るは珍宝を以てした。
烏桓或願留宿衛於是封其渠帥為侯王君長者八十一人皆居塞內布於緣邊諸郡
烏桓の或るものは、宿衛に留まることを願い、ここに於いてその渠帥に封じて、侯王、君長に為された者は八十一人。皆、塞の内に居した。縁辺諸郡に布(ひろがる)した。
令招來種人給其衣食遂為漢偵候助擊匈奴鮮卑
令して、烏桓種人を招来し、その衣食を給わった。遂に漢偵候(漢のためにようすをうかがう)と為り、匈奴、鮮卑を助撃した。
時司徒掾班彪上言烏桓天性輕黠好為寇賊若久放縱而無總領者必復侵掠居人但委主降掾史恐非所能制
時に司徒掾班彪が上言した、「烏桓は天性、軽黠(かるはずみでわるがしこい)で、寇賊を為すことを好みます。若し、久しく放縦すれば、総領者はいなくなり、必ず復(また)、居人を侵掠します。但(いたずらに)主降掾史に委ねて、制することができるところで非ざるを恐れます。
臣愚以為宜復置烏桓校尉誠有益於附集省國家之邊慮
臣愚(わたし)は宜しく復(また)、烏桓校尉を置くべきだと思います。誠に附集に益が有り、国家の辺慮を省(はぶ)くことでしょう」と。
帝從之於是始復置校尉於上谷城開營府并領鮮卑賞賜質子歲時互市焉
帝(後漢光武帝)はこれに従った。ここに於いて復(また)、校尉を上谷城(おそらく張家口市辺り?)に置くことを始めた。営府を開き、併せて鮮卑を領(おさめる)し、質子に賞賜し、歳時に互いに市した。
後漢光武帝(在位25~57)の初め頃、烏桓は匈奴と兵を連ねて寇を為し、代郡以東は尤(もっと)もその害を被った。
居止近塞朝發穹廬暮至城郭五郡民庶家受其辜至於郡縣損壞百姓流亡其在上谷塞外白山者最為強富
塞の近くに止まって居し、朝、穹廬(匈奴の家)を出発して、暮れに城郭に至った。五郡の民の庶家(多くの家)がその害(わざわい 辜(クー)=害(ホー)?)を受けた。郡県は損壊に至り、百姓は流亡した。その上谷(張家口市辺り?)の塞の外に在る白山という者は、最も強富と為った。
建武二十一年遣伏波將軍馬援將三千騎出五阮關掩擊之
建武二十一年(45)、伏波将軍馬援を遣わし、三千騎を将(ひきいる)して五阮関に出で、これを掩擊(ふいを撃つ)した。
烏桓逆知悉相率逃走追斬百級而還烏桓復尾擊援後援遂晨夜奔歸比入塞馬死者千餘匹
烏桓は逆(あらかじめ)に知り、悉く相率いて逃走した。追って百級を斬って還った。烏桓は復(また)、馬援の後ろを尾行して撃った。馬援は遂に 晨夜(朝から夜まで)奔帰した。塞に入る比(ころ)には、馬の死者は千余匹。
二十二年匈奴國亂烏桓乘弱擊破之匈奴轉北徙數千里漠南地空帝乃以幣帛賂烏桓
二十二年(46)、匈奴の国が乱れ、烏桓は弱に乗じてこれを撃破した。匈奴は転じて北へ数千里(一里150m換算で約750辧腺坑娃悪辧砲鰈弌憤椶襦砲掘∈叔瞭遒涼呂篭覆ら)になった。帝は乃ち、幣帛を以て烏桓に賂(贈る)した。
二十五年遼西烏桓大人郝旦等九百二十二人率眾向化詣闕朝貢獻奴婢牛馬及弓虎豹貂皮
二十五年(49)、遼西烏桓大人郝旦ら九百二十二人が衆を率いて華(中国 化(カ)=華(カ)?)に向かい、闕に詣でて朝貢した。奴婢、牛馬、及び狐(きつね 弓(ク)=狐(コ)?)、虎、豹、貂の毛皮を献じた。
是時四夷朝賀絡驛而至天子乃命大會勞饗賜以珍寶
この時、四夷は朝賀し、駅を絡(つなげる)して至った。天子は乃ち、大会を命じて労饗し、賜るは珍宝を以てした。
烏桓或願留宿衛於是封其渠帥為侯王君長者八十一人皆居塞內布於緣邊諸郡
烏桓の或るものは、宿衛に留まることを願い、ここに於いてその渠帥に封じて、侯王、君長に為された者は八十一人。皆、塞の内に居した。縁辺諸郡に布(ひろがる)した。
令招來種人給其衣食遂為漢偵候助擊匈奴鮮卑
令して、烏桓種人を招来し、その衣食を給わった。遂に漢偵候(漢のためにようすをうかがう)と為り、匈奴、鮮卑を助撃した。
時司徒掾班彪上言烏桓天性輕黠好為寇賊若久放縱而無總領者必復侵掠居人但委主降掾史恐非所能制
時に司徒掾班彪が上言した、「烏桓は天性、軽黠(かるはずみでわるがしこい)で、寇賊を為すことを好みます。若し、久しく放縦すれば、総領者はいなくなり、必ず復(また)、居人を侵掠します。但(いたずらに)主降掾史に委ねて、制することができるところで非ざるを恐れます。
臣愚以為宜復置烏桓校尉誠有益於附集省國家之邊慮
臣愚(わたし)は宜しく復(また)、烏桓校尉を置くべきだと思います。誠に附集に益が有り、国家の辺慮を省(はぶ)くことでしょう」と。
帝從之於是始復置校尉於上谷城開營府并領鮮卑賞賜質子歲時互市焉
帝(後漢光武帝)はこれに従った。ここに於いて復(また)、校尉を上谷城(おそらく張家口市辺り?)に置くことを始めた。営府を開き、併せて鮮卑を領(おさめる)し、質子に賞賜し、歳時に互いに市した。