光武初匈奴強盛率鮮卑與烏桓寇抄北邊殺略吏人無有寧歲
光武帝(在位25~57)の初め頃、匈奴は強盛になり、鮮卑と烏桓を率いて、北辺を寇抄し、吏人を殺略し、寧(安んずる)する歳が有ることは無かった。
建武二十一年鮮卑與匈奴入遼東遼東太守祭肜擊破之斬獲殆盡事已具肜傳由是震怖
建武二十一年(45)、鮮卑と匈奴が遼東に入った。遼東太守祭肜がこれを撃破し、斬獲は殆(ほとんど)尽くされた。事はすでに肜伝に具にする。これより震怖した。
及南單于附漢北虜孤弱二十五年鮮卑始通驛使
南単于が漢に附くに及んで、北虜は狐弱になった。二十五年(49)、鮮卑は駅使を通わせることを始めた。
其後都護偏何等詣祭肜求自效功因令擊北匈奴左伊育訾部斬首二千餘級
その後、都護偏何らが祭肜に詣で、自ら效功を求めた。因りて、北匈奴左伊育訾部を撃つことを令し、斬首すること二千余級。
其後偏何連歲出兵擊北虜還輒持首級詣遼東受賞賜
その後、偏何は連歳(毎年)出兵して北虜を撃った。還って輒(そのたびごとに)に首級を持って遼東に詣で、賞賜を受けた。
三十年鮮卑大人於仇賁滿頭等率種人詣闕朝賀慕義內屬帝封於仇賁為王滿頭為侯
三十年(54)、鮮卑大人於仇賁、満頭らが種人(同種人)を率いて闕に詣で朝賀した。義を慕い内属した。後漢光武帝は於仇賁に封じて王と為し、満頭を侯と為した。
時漁陽赤山烏桓歆志賁等數寇上谷
時に漁陽(北京市密雲県辺り?)赤山(内モンゴル自治区赤峰市辺り?)烏桓の歆志賁らが数(たびたび)、上谷(張家口市辺り?)を寇した。
永平元年祭肜復賂偏何擊歆志賁破斬之於是鮮卑大人皆來歸附並詣遼東受賞賜青徐二州給錢歲二億七千萬為常
永平元年(58)、祭肜は、復(また)、偏何に賂(まいない)して、歆志賁を撃たせ、これを破斬した。ここに於いて、鮮卑大人は皆、帰附に来た。並びに、遼東(おそらく遼寧省鞍山市辺り?)に詣で、賞賜を受けた。青州、徐州の二州は銭を歳に二億七千万を給わり、常と為した。
明章二世保塞無事
後漢明帝(在位57~75)、章帝(在位75~88)の二世(二代)は、塞を保ち、事は無し。
光武帝(在位25~57)の初め頃、匈奴は強盛になり、鮮卑と烏桓を率いて、北辺を寇抄し、吏人を殺略し、寧(安んずる)する歳が有ることは無かった。
建武二十一年鮮卑與匈奴入遼東遼東太守祭肜擊破之斬獲殆盡事已具肜傳由是震怖
建武二十一年(45)、鮮卑と匈奴が遼東に入った。遼東太守祭肜がこれを撃破し、斬獲は殆(ほとんど)尽くされた。事はすでに肜伝に具にする。これより震怖した。
及南單于附漢北虜孤弱二十五年鮮卑始通驛使
南単于が漢に附くに及んで、北虜は狐弱になった。二十五年(49)、鮮卑は駅使を通わせることを始めた。
其後都護偏何等詣祭肜求自效功因令擊北匈奴左伊育訾部斬首二千餘級
その後、都護偏何らが祭肜に詣で、自ら效功を求めた。因りて、北匈奴左伊育訾部を撃つことを令し、斬首すること二千余級。
其後偏何連歲出兵擊北虜還輒持首級詣遼東受賞賜
その後、偏何は連歳(毎年)出兵して北虜を撃った。還って輒(そのたびごとに)に首級を持って遼東に詣で、賞賜を受けた。
三十年鮮卑大人於仇賁滿頭等率種人詣闕朝賀慕義內屬帝封於仇賁為王滿頭為侯
三十年(54)、鮮卑大人於仇賁、満頭らが種人(同種人)を率いて闕に詣で朝賀した。義を慕い内属した。後漢光武帝は於仇賁に封じて王と為し、満頭を侯と為した。
時漁陽赤山烏桓歆志賁等數寇上谷
時に漁陽(北京市密雲県辺り?)赤山(内モンゴル自治区赤峰市辺り?)烏桓の歆志賁らが数(たびたび)、上谷(張家口市辺り?)を寇した。
永平元年祭肜復賂偏何擊歆志賁破斬之於是鮮卑大人皆來歸附並詣遼東受賞賜青徐二州給錢歲二億七千萬為常
永平元年(58)、祭肜は、復(また)、偏何に賂(まいない)して、歆志賁を撃たせ、これを破斬した。ここに於いて、鮮卑大人は皆、帰附に来た。並びに、遼東(おそらく遼寧省鞍山市辺り?)に詣で、賞賜を受けた。青州、徐州の二州は銭を歳に二億七千万を給わり、常と為した。
明章二世保塞無事
後漢明帝(在位57~75)、章帝(在位75~88)の二世(二代)は、塞を保ち、事は無し。