和帝永元中大將軍竇憲遣右校尉耿夔擊破匈奴北單于逃走鮮卑因此轉徙據其地
後漢和帝永元(89~105)の中頃、大将軍宝憲が右校尉耿夔を遣わして、匈奴を撃破した。北単于は逃走し、鮮卑は此れに因り転徙(移転)してその地に拠った。
匈奴餘種留者尚有十餘萬落皆自號鮮卑鮮卑由此漸盛
匈奴の余(ほか)の種の留まった者は、尚(なお)、十余万落(戸)が有り、皆、自ら鮮卑を号し、鮮卑は此れ由り、漸(次第に)盛んになった。
九年遼東鮮卑攻肥如縣太守祭參坐沮敗下獄死
九年(97年)、遼東の鮮卑は肥如県を攻めた。太守祭參坐沮は敗け、獄に下され死んだ。
十三年遼東鮮卑寇右北平因入漁陽漁陽太守擊破之
十三年(101)、遼東の鮮卑が右北平を寇し、因りて漁陽に入り、漁陽太守がこれを撃破した。
延平元年鮮卑復寇漁陽太守張顯率數百人出塞追之
延平元年(106)、鮮卑が復(また)、漁陽を寇し、太守張顯は数百人を率いて塞を出てこれを追った。
兵馬掾嚴授諫曰前道險阻賊埶難量宜且結營先令輕騎偵視之顯意甚銳怒欲斬之
兵馬掾嚴授が諫めて曰く、「前の道は険阻で俗の勢いは量り難く、宜しく、且(とりあえず)、陣営を結び、先に軽騎に令してこれを偵視するべきです」と。張顯の意は甚だ鋭く、怒ってこれを斬ろうと欲した。
因復進兵遇虜伏發士卒悉走唯授力戰身被十創手殺數人而死
因りて、復(また)、兵を進めた。虜(敵)の伏発に遇(あう)し、士卒は悉く走(にげる)った。唯(ただ)、巌授だけが力戦し、身に十の創(きず)を被りても、手ずから数人を殺して死んだ。
顯中流矢主簿衛福功曹徐咸皆自投赴顯俱歿於陣
張顯は流れ矢に中(あたる)り、主簿衛福、功曹徐咸は皆、自ら投じて張顯に赴き、俱(とも)に陣に於いて歿(死ぬ)した。
太后策書褒歎賜顯錢六十萬以家二人為郎授福咸各錢十萬除一子為郎。
太后は策書して、褒歎(ほめたたえる)し、張顯に銭六十萬を賜り、家の二人を以て郎と為し、巌授、衛福、除咸は各、銭十万、一子に叙(除=叙)して郎と為した。
後漢和帝永元(89~105)の中頃、大将軍宝憲が右校尉耿夔を遣わして、匈奴を撃破した。北単于は逃走し、鮮卑は此れに因り転徙(移転)してその地に拠った。
匈奴餘種留者尚有十餘萬落皆自號鮮卑鮮卑由此漸盛
匈奴の余(ほか)の種の留まった者は、尚(なお)、十余万落(戸)が有り、皆、自ら鮮卑を号し、鮮卑は此れ由り、漸(次第に)盛んになった。
九年遼東鮮卑攻肥如縣太守祭參坐沮敗下獄死
九年(97年)、遼東の鮮卑は肥如県を攻めた。太守祭參坐沮は敗け、獄に下され死んだ。
十三年遼東鮮卑寇右北平因入漁陽漁陽太守擊破之
十三年(101)、遼東の鮮卑が右北平を寇し、因りて漁陽に入り、漁陽太守がこれを撃破した。
延平元年鮮卑復寇漁陽太守張顯率數百人出塞追之
延平元年(106)、鮮卑が復(また)、漁陽を寇し、太守張顯は数百人を率いて塞を出てこれを追った。
兵馬掾嚴授諫曰前道險阻賊埶難量宜且結營先令輕騎偵視之顯意甚銳怒欲斬之
兵馬掾嚴授が諫めて曰く、「前の道は険阻で俗の勢いは量り難く、宜しく、且(とりあえず)、陣営を結び、先に軽騎に令してこれを偵視するべきです」と。張顯の意は甚だ鋭く、怒ってこれを斬ろうと欲した。
因復進兵遇虜伏發士卒悉走唯授力戰身被十創手殺數人而死
因りて、復(また)、兵を進めた。虜(敵)の伏発に遇(あう)し、士卒は悉く走(にげる)った。唯(ただ)、巌授だけが力戦し、身に十の創(きず)を被りても、手ずから数人を殺して死んだ。
顯中流矢主簿衛福功曹徐咸皆自投赴顯俱歿於陣
張顯は流れ矢に中(あたる)り、主簿衛福、功曹徐咸は皆、自ら投じて張顯に赴き、俱(とも)に陣に於いて歿(死ぬ)した。
太后策書褒歎賜顯錢六十萬以家二人為郎授福咸各錢十萬除一子為郎。
太后は策書して、褒歎(ほめたたえる)し、張顯に銭六十萬を賜り、家の二人を以て郎と為し、巌授、衛福、除咸は各、銭十万、一子に叙(除=叙)して郎と為した。