安帝永初中鮮卑大人燕荔陽詣闕朝賀太后賜燕荔陽王印綬赤車參駕令止烏桓校尉所居城下
後漢安帝永初(107~113)の中頃、鮮卑大人の燕荔陽が闕に詣で朝賀した。太后は燕荔陽に王の印綬、赤車、参駕を賜り、烏桓校尉の居する所の城下に止めさせた。
通胡市因築南北兩部質館鮮卑邑落百二十部各遣入質是後或降或畔與匈奴烏桓更相攻擊築館以受降質
胡の市に通い、因りて南北両部の質館を築いた。鮮卑の邑落の百二十部は、各、入質を遣わした。是の後、或いは降伏し、或いは畔(そむく)し、匈奴、烏桓と更相(こもごもに)に攻撃しあった。 館を築いて降質を受けるを以てした。
元初二年秋遼東鮮卑圍無慮縣州郡合兵固保清野鮮卑無所得
元初二年(115)秋、遼東の鮮卑は無虜県を包囲した。州郡は兵を合わせて清野に固保し、鮮卑は得るところ無し。
復攻扶黎營殺長吏四年遼西鮮卑連休等遂燒塞門寇百姓
復、扶黎営を攻め、長吏を殺した。四年(117)、遼西の鮮卑の連休らが遂に塞の門を焼き、百姓を寇した。
烏桓大人於秩居等與連休有宿怨共郡兵奔擊大破之斬首千三百級悉獲其生口牛馬財物
烏桓大人の於秩居らと連休は宿怨が有り、郡兵と共に奔撃し、これを大破した。斬首千三百級、悉く、その生口、牛馬、財物を獲った。
五年秋代郡鮮卑萬餘騎遂穿塞入寇分攻城邑燒官寺殺長吏而去乃發緣邊甲卒黎陽營兵屯上谷以備之
五年(118)秋、代郡鮮卑の一万余騎が遂に塞を穿って入寇し、分かれて城邑を攻めた。官寺を焼き、長吏を殺して去った。そこで、縁辺の甲卒、黎陽営平を発して、上谷に屯しこれに備えるを以てした。
冬鮮卑入上谷攻居庸關復發緣邊諸郡黎陽營兵積射士步騎二萬人屯列衝要
冬、鮮卑が上谷に入り、居庸関を攻めた。復(また)、縁辺の諸郡、黎陽営兵を発し、積射士、歩騎二万人は衝要に屯列した。
六年秋鮮卑入馬城塞殺長吏度遼將軍遵發積射士三千人及中郎將馬續率南單于
六年(119)秋、鮮卑は馬城の塞に入り、長吏を殺した。度遼将軍遵が積射士三千人を発し、及び、中郎将馬續は南単于を率いて、
與遼西右北平兵馬會出塞追擊鮮卑大破之獲生口及牛羊財物甚眾又發積射士三千人馬三千匹詣度遼營屯守
遼西、右北平の兵馬と会し、塞を出て鮮卑を追撃し、これを大破した。生口、及び、牛羊、財物を獲ること甚だ衆(多い)した。又、積射士三千人、馬三千匹を発して、度遼営に詣で屯守した。
後漢安帝永初(107~113)の中頃、鮮卑大人の燕荔陽が闕に詣で朝賀した。太后は燕荔陽に王の印綬、赤車、参駕を賜り、烏桓校尉の居する所の城下に止めさせた。
通胡市因築南北兩部質館鮮卑邑落百二十部各遣入質是後或降或畔與匈奴烏桓更相攻擊築館以受降質
胡の市に通い、因りて南北両部の質館を築いた。鮮卑の邑落の百二十部は、各、入質を遣わした。是の後、或いは降伏し、或いは畔(そむく)し、匈奴、烏桓と更相(こもごもに)に攻撃しあった。 館を築いて降質を受けるを以てした。
元初二年秋遼東鮮卑圍無慮縣州郡合兵固保清野鮮卑無所得
元初二年(115)秋、遼東の鮮卑は無虜県を包囲した。州郡は兵を合わせて清野に固保し、鮮卑は得るところ無し。
復攻扶黎營殺長吏四年遼西鮮卑連休等遂燒塞門寇百姓
復、扶黎営を攻め、長吏を殺した。四年(117)、遼西の鮮卑の連休らが遂に塞の門を焼き、百姓を寇した。
烏桓大人於秩居等與連休有宿怨共郡兵奔擊大破之斬首千三百級悉獲其生口牛馬財物
烏桓大人の於秩居らと連休は宿怨が有り、郡兵と共に奔撃し、これを大破した。斬首千三百級、悉く、その生口、牛馬、財物を獲った。
五年秋代郡鮮卑萬餘騎遂穿塞入寇分攻城邑燒官寺殺長吏而去乃發緣邊甲卒黎陽營兵屯上谷以備之
五年(118)秋、代郡鮮卑の一万余騎が遂に塞を穿って入寇し、分かれて城邑を攻めた。官寺を焼き、長吏を殺して去った。そこで、縁辺の甲卒、黎陽営平を発して、上谷に屯しこれに備えるを以てした。
冬鮮卑入上谷攻居庸關復發緣邊諸郡黎陽營兵積射士步騎二萬人屯列衝要
冬、鮮卑が上谷に入り、居庸関を攻めた。復(また)、縁辺の諸郡、黎陽営兵を発し、積射士、歩騎二万人は衝要に屯列した。
六年秋鮮卑入馬城塞殺長吏度遼將軍遵發積射士三千人及中郎將馬續率南單于
六年(119)秋、鮮卑は馬城の塞に入り、長吏を殺した。度遼将軍遵が積射士三千人を発し、及び、中郎将馬續は南単于を率いて、
與遼西右北平兵馬會出塞追擊鮮卑大破之獲生口及牛羊財物甚眾又發積射士三千人馬三千匹詣度遼營屯守
遼西、右北平の兵馬と会し、塞を出て鮮卑を追撃し、これを大破した。生口、及び、牛羊、財物を獲ること甚だ衆(多い)した。又、積射士三千人、馬三千匹を発して、度遼営に詣で屯守した。