天子報曰古者賞有功襃守成尚文遭遇右武未有易此者也
天子(漢孝武帝劉徹)はこたえて曰く、「古(いにしえ)は功有る者を賞(しょう)し、徳を褒(ほ)め、すでにできあがったものをまもり固(かた)めるときは文を尊(とうと)び、敵に出会ったときは武を尊(とうと)んだ。
朕宿昔庶幾獲承尊位懼不能寧惟所與共為治者君宜知之
朕は平生から尊位を受け継ぎ獲(え)ることをこいねがい、安寧(あんねい)しないことを懼(おそ)れ、ともに治を為すところの者を思っている。君は宜(よろ)しくこれを知るべし。
蓋君子善善惡惡(君宜知之)君若謹行常在朕躬
思うに君子は善をほめ、悪を憎む、君の謹(つつし)み深い行いのごとくは、常(つね)に朕の身に在(あ)る。
君不幸罹霜露之病何恙不已乃上書歸侯乞骸骨是章朕之不也
君は不幸にも霜露の病をこうむり、どうして癒(い)えないことをうれえ、そこで上書して侯位を帰(かえ)し、退職を乞うのか、これは、朕の不徳を章(あきら)かにするのである。
今事少君其省思慮一精神輔以醫藥因賜告牛酒雜帛
今、少しの間仕(つか)え、君はその思慮(しりょ)を省(はぶ)いて、精神を一(いつ)にして、医薬を以ってよりどころとせよ」と。因(よ)りて休暇、牛、酒、いろいろな絹織物を賜(たまわ)った。
居數月病有瘳視事
居ること数ヶ月、病(やまい)は元気をとりもどし、事(こと)を視(み)た。
元狩二年弘病竟以丞相終子度嗣為平津侯
元狩二年、漢丞相平津侯公孫弘は病にかかり、とうとう丞相を以って終(お)えた。子の公孫度が継(つ)いで平津侯に為った。
度為山陽太守十餘歲坐法失侯
平陽侯公孫度が山陽太守と為って十余年、法に罪を問われて侯位を失った。
主父偃者齊臨菑人也學長短縱之術晚乃學易春秋百家言
主父偃という者は斉の臨菑の人であり。長短縱の術を学び、おくれて易経、春秋、百家の言(げん)を学(まな)んだ。
游齊諸生莫能厚遇也齊諸儒生相與排擯不容於齊
斉の諸(もろもろ)の諸侯(諸生=諸侯?)の間を巡(めぐ)ったが、厚遇できるものはなかったのは、
斉の諸(もろもろ)の儒者が相(あい)ともに排(はい)ししりぞけあったからで、斉に於いて容(い)れられなかった。
家貧假貸無所得乃北游燕趙中山皆莫能厚遇為客甚困
家が貧しく、借(か)りるに得るところが無く、そこで北に燕、趙、中山を巡り、皆(みな)厚遇できず、客に為るには甚(はなは)だ困(こま)った。
孝武元光元年中以為諸侯莫足游者乃西入關見衛將軍
漢孝武帝元光元年中、諸侯は巡(めぐ)るに足らない者と為すを以って、そこで西に進んで関に入り、
衛将軍(漢太中大夫衛青)に見(まみ)えた。
衛將軍數言上上不召資用乏留久諸公賓客多厭之乃上書闕下
衛将軍(漢太中大夫衛青)はたびたび言上したが、上(漢孝武帝劉徹)は召し寄せなかった。入用な金品が乏(とぼ)しく、留(とど)まること久しく、諸(もろもろ)の公の賓客の多くがこれを厭(いと)い、そこで都(みやこ)の宮城の門の下で上書した。
朝奏暮召入見所言九事其八事為律令一事諫伐匈奴其辭曰
朝、奏上し、日暮れに召し入れられて見(まみ)えた。九つの事を言うところは、その八つの事が律令と為し、一つの事は匈奴を討(う)つことを諌(いさ)めた。その辞(じ)曰く、
臣聞明主不惡切諫以博觀忠臣不敢避重誅以直諫是故事無遺策而功流萬世
「わたしは聞きます、明主はきびしい諌(いさ)めを憎(にく)まず、博(ひろ)く見きわめ、忠臣は敢(あ)えて重い誅罰を避(さ)けず、相手に遠慮せずに忠告するを以ってし、これ故(ゆえ)に事は手抜(てぬ)かり無くして、功は万世に流れる、と。
天子(漢孝武帝劉徹)はこたえて曰く、「古(いにしえ)は功有る者を賞(しょう)し、徳を褒(ほ)め、すでにできあがったものをまもり固(かた)めるときは文を尊(とうと)び、敵に出会ったときは武を尊(とうと)んだ。
朕宿昔庶幾獲承尊位懼不能寧惟所與共為治者君宜知之
朕は平生から尊位を受け継ぎ獲(え)ることをこいねがい、安寧(あんねい)しないことを懼(おそ)れ、ともに治を為すところの者を思っている。君は宜(よろ)しくこれを知るべし。
蓋君子善善惡惡(君宜知之)君若謹行常在朕躬
思うに君子は善をほめ、悪を憎む、君の謹(つつし)み深い行いのごとくは、常(つね)に朕の身に在(あ)る。
君不幸罹霜露之病何恙不已乃上書歸侯乞骸骨是章朕之不也
君は不幸にも霜露の病をこうむり、どうして癒(い)えないことをうれえ、そこで上書して侯位を帰(かえ)し、退職を乞うのか、これは、朕の不徳を章(あきら)かにするのである。
今事少君其省思慮一精神輔以醫藥因賜告牛酒雜帛
今、少しの間仕(つか)え、君はその思慮(しりょ)を省(はぶ)いて、精神を一(いつ)にして、医薬を以ってよりどころとせよ」と。因(よ)りて休暇、牛、酒、いろいろな絹織物を賜(たまわ)った。
居數月病有瘳視事
居ること数ヶ月、病(やまい)は元気をとりもどし、事(こと)を視(み)た。
元狩二年弘病竟以丞相終子度嗣為平津侯
元狩二年、漢丞相平津侯公孫弘は病にかかり、とうとう丞相を以って終(お)えた。子の公孫度が継(つ)いで平津侯に為った。
度為山陽太守十餘歲坐法失侯
平陽侯公孫度が山陽太守と為って十余年、法に罪を問われて侯位を失った。
主父偃者齊臨菑人也學長短縱之術晚乃學易春秋百家言
主父偃という者は斉の臨菑の人であり。長短縱の術を学び、おくれて易経、春秋、百家の言(げん)を学(まな)んだ。
游齊諸生莫能厚遇也齊諸儒生相與排擯不容於齊
斉の諸(もろもろ)の諸侯(諸生=諸侯?)の間を巡(めぐ)ったが、厚遇できるものはなかったのは、
斉の諸(もろもろ)の儒者が相(あい)ともに排(はい)ししりぞけあったからで、斉に於いて容(い)れられなかった。
家貧假貸無所得乃北游燕趙中山皆莫能厚遇為客甚困
家が貧しく、借(か)りるに得るところが無く、そこで北に燕、趙、中山を巡り、皆(みな)厚遇できず、客に為るには甚(はなは)だ困(こま)った。
孝武元光元年中以為諸侯莫足游者乃西入關見衛將軍
漢孝武帝元光元年中、諸侯は巡(めぐ)るに足らない者と為すを以って、そこで西に進んで関に入り、
衛将軍(漢太中大夫衛青)に見(まみ)えた。
衛將軍數言上上不召資用乏留久諸公賓客多厭之乃上書闕下
衛将軍(漢太中大夫衛青)はたびたび言上したが、上(漢孝武帝劉徹)は召し寄せなかった。入用な金品が乏(とぼ)しく、留(とど)まること久しく、諸(もろもろ)の公の賓客の多くがこれを厭(いと)い、そこで都(みやこ)の宮城の門の下で上書した。
朝奏暮召入見所言九事其八事為律令一事諫伐匈奴其辭曰
朝、奏上し、日暮れに召し入れられて見(まみ)えた。九つの事を言うところは、その八つの事が律令と為し、一つの事は匈奴を討(う)つことを諌(いさ)めた。その辞(じ)曰く、
臣聞明主不惡切諫以博觀忠臣不敢避重誅以直諫是故事無遺策而功流萬世
「わたしは聞きます、明主はきびしい諌(いさ)めを憎(にく)まず、博(ひろ)く見きわめ、忠臣は敢(あ)えて重い誅罰を避(さ)けず、相手に遠慮せずに忠告するを以ってし、これ故(ゆえ)に事は手抜(てぬ)かり無くして、功は万世に流れる、と。