主父方貴幸時賓客以千數及其族死無一人收者唯獨洨孔車收葬之
主父偃がまさに貴ばれかわいがられていた時、賓客は千を以って数えられたが、その族死するに及んで、一人も収(おさ)める者は無く、ただ一人洨孔車だけがこれを収(おさ)めて葬(ほうむ)った。
天子后聞之以為孔車長者也
天子(漢孝武帝劉徹)は後にこれを聞いて、洨孔車は長者だと思ったのである。
太史公曰公孫弘行義雖修然亦遇時漢興八十餘年矣
太史公曰く、「公孫弘は義を行い、修(おさ)めたと雖(いえど)も、然(しか)るにまた好機に遭遇したのである。漢が興(おこ)って八十余年、
上方鄉文學招俊乂以廣儒墨弘為舉首
上はまさに文学に向かい、すぐれた才能の人物を招(まね)き、儒家、墨家を広めるを以ってし、公孫弘が首位に挙(あ)げられることに為った。
主父偃當路諸公皆譽之及名敗身誅士爭言其惡悲夫
主父偃が重要な政治的地位にいるときは、諸(もろもろ)の公は皆(みな)これを誉(ほ)めたが、名声が敗(やぶ)れ身が誅されるに及ぶと、士は争ってその悪を言った、悲しいかな」と。
太皇太后詔大司徒大司空蓋聞治國之道富民為始
太皇太后が大司徒、大司空に詔(みことのり)した、「蓋(けだ)し、聞くに、国を治(おさ)める道
は民(たみ)を富(と)ますことを始(はじ)めと為す、と。
富民之要在於節儉孝經曰安上治民莫善於禮
民(たみ)を富(と)ませることの要(かなめ)は節倹に在(あ)る。「孝経」曰く、上を安んじて民を治(おさ)めるに、礼より善いものはなし、と。
主父偃がまさに貴ばれかわいがられていた時、賓客は千を以って数えられたが、その族死するに及んで、一人も収(おさ)める者は無く、ただ一人洨孔車だけがこれを収(おさ)めて葬(ほうむ)った。
天子后聞之以為孔車長者也
天子(漢孝武帝劉徹)は後にこれを聞いて、洨孔車は長者だと思ったのである。
太史公曰公孫弘行義雖修然亦遇時漢興八十餘年矣
太史公曰く、「公孫弘は義を行い、修(おさ)めたと雖(いえど)も、然(しか)るにまた好機に遭遇したのである。漢が興(おこ)って八十余年、
上方鄉文學招俊乂以廣儒墨弘為舉首
上はまさに文学に向かい、すぐれた才能の人物を招(まね)き、儒家、墨家を広めるを以ってし、公孫弘が首位に挙(あ)げられることに為った。
主父偃當路諸公皆譽之及名敗身誅士爭言其惡悲夫
主父偃が重要な政治的地位にいるときは、諸(もろもろ)の公は皆(みな)これを誉(ほ)めたが、名声が敗(やぶ)れ身が誅されるに及ぶと、士は争ってその悪を言った、悲しいかな」と。
太皇太后詔大司徒大司空蓋聞治國之道富民為始
太皇太后が大司徒、大司空に詔(みことのり)した、「蓋(けだ)し、聞くに、国を治(おさ)める道
は民(たみ)を富(と)ますことを始(はじ)めと為す、と。
富民之要在於節儉孝經曰安上治民莫善於禮
民(たみ)を富(と)ませることの要(かなめ)は節倹に在(あ)る。「孝経」曰く、上を安んじて民を治(おさ)めるに、礼より善いものはなし、と。