班固稱曰公孫弘卜式兒皆以鴻漸之翼困於燕雀
班固は称(たた)えて曰く、「公孫弘、卜式、児は皆(みな)、白鳥、はやぶさ(漸(せん)=鸇(せん)?)の翼(つばさ)を以って燕(つばめ)、雀(すずめ)に於いて難儀(なんぎ)し、
遠跡羊豕之非遇其時焉能致此位乎
遠く羊(ひつじ)豚(ぶた)の間に跡(あと)を追い、その好機に遇(あ)わなければ、どうしてこのような地位にとどくことができたであろうか。
是時漢興六十餘載海內乂安府庫充實而四夷未賓
この時、漢が興(おこ)って六十余年、海内は治(おさ)まって安らかで、府庫は充実し、しこうして、四方の異民族は未(ま)だ賓服しておらず、
制度多闕上方欲用文武求之如弗及
制度は欠点が多く、上がまさに文武を用いることを欲さんとするは、これを求めて間に合わないが如(ごと)くであった。
始以蒲輪迎枚生見主父而嘆息群臣慕向異人并出
始め、蒲輪(揺れないように、がまで車輪を包んだ車)を以って枚先生(枚乗)を迎(むか)え、主父偃に見(まみ)えて嘆息(たんそく)した。群臣が慕(した)って向かい、すぐれた人が並び出た。
卜式試於芻牧弘羊擢於賈豎衛青奮於奴仆
卜式は放牧の仕事をする人から試(ため)され、弘羊はいやしい商人から引き抜かれ、衛青は奴僕から奮(ふる)われ、
日磾出於降虜斯亦曩時版筑飯牛之朋矣
金日磾(もと休屠王の太子)は降服した虜(とりこ)から出され、これらもまた昔の城ぶしん者、牛飼(うしか)いたちの(賢者の)仲間である。
漢之得人於茲為盛儒雅則公孫弘董仲舒兒篤行則石建石慶
漢の人を得るは、これより盛んに為った。儒雅(じゅが)はすなわち公孫弘、董仲舒、児で、篤行(とっこう)はすなわち、石建、石慶で、
質直則汲黯卜式推賢則韓安國鄭當時
質直はすなわち汲黯、卜式で、推賢はすなわち韓安国、鄭当時で、
定令則趙禹張湯文章則司馬遷相如
定令はすなわち趙禹、張湯で、文章はすなわち司馬遷、司馬相如で、
滑稽則東方朔枚皋應對則嚴助朱買臣歷數則唐都落下閎
滑稽(口先がうまくてしゃれたことをいうこと)はすなわち東方朔、枚皋で、応対(おうたい)はすなわち厳助、朱買臣で、歴数(こよみ)はすなわち、唐都、落下閎で、
協律則李延年運籌則桑弘羊奉使則張騫蘇武將帥則衛青霍去病
協律(音律をととのえる)はすなわち李延年で、運籌はすなわち桑弘羊で、奉使はすなわち張騫、蘇武で、将帥はすなわち衛青、霍去病で、
受遺則霍光金日磾其餘不可勝紀
受遺は霍光、金日磾であった。その残りはすべて記(しる)すことはできない。
是以興造功業制度遺文後世莫及
ここに立派な事業を興(おこ)し制度を造(つく)るを以って、文化を遺(のこ)し、後世で及ぶものはなかった。
孝宣承統纂修洪業亦講論六藝招選茂異
漢孝宣帝劉詢が統治を承(うけたまわ)り、帝王業を纂修(資料を集め書物を編集すること)し、また六芸を講論(こうろん)し、茂異(もい 才能が優れている人)を選び招(まね)き、
而蕭望之梁丘賀夏侯勝韋玄成嚴彭祖尹更始以儒術進
しこうして蕭望之、梁丘賀、夏侯勝、韋玄成、嚴彭祖、尹更始が儒術を以って進(すす)め、
劉向王褒以文章顯
劉向、王褒は文章を以って顕(あきら)かになった。
將相則張安世趙充國魏相邴吉于定國杜延年
将相はすなわち張安世、趙充國、魏相、邴吉、于定國、杜延年で、
治民則黃霸王成龔遂鄭弘邵信臣韓延壽尹翁歸趙廣漢之屬
治民はすなわち黃霸、王成、龔遂、鄭弘、邵信臣、韓延壽、尹翁歸、趙廣漢のなかまで、
皆有功跡見述於後累其名臣亦其次也
皆(みな)功跡が有り、後(のち)に於いて述(の)べられた。その名臣をかさねるは、またその次(つぎ)である」と。
今日で史記 平津侯主父列伝は終わりです。次の南越列伝、次の東越列伝は以前に和訳してありますので、明日からは史記 朝鮮列伝に入ります。
班固は称(たた)えて曰く、「公孫弘、卜式、児は皆(みな)、白鳥、はやぶさ(漸(せん)=鸇(せん)?)の翼(つばさ)を以って燕(つばめ)、雀(すずめ)に於いて難儀(なんぎ)し、
遠跡羊豕之非遇其時焉能致此位乎
遠く羊(ひつじ)豚(ぶた)の間に跡(あと)を追い、その好機に遇(あ)わなければ、どうしてこのような地位にとどくことができたであろうか。
是時漢興六十餘載海內乂安府庫充實而四夷未賓
この時、漢が興(おこ)って六十余年、海内は治(おさ)まって安らかで、府庫は充実し、しこうして、四方の異民族は未(ま)だ賓服しておらず、
制度多闕上方欲用文武求之如弗及
制度は欠点が多く、上がまさに文武を用いることを欲さんとするは、これを求めて間に合わないが如(ごと)くであった。
始以蒲輪迎枚生見主父而嘆息群臣慕向異人并出
始め、蒲輪(揺れないように、がまで車輪を包んだ車)を以って枚先生(枚乗)を迎(むか)え、主父偃に見(まみ)えて嘆息(たんそく)した。群臣が慕(した)って向かい、すぐれた人が並び出た。
卜式試於芻牧弘羊擢於賈豎衛青奮於奴仆
卜式は放牧の仕事をする人から試(ため)され、弘羊はいやしい商人から引き抜かれ、衛青は奴僕から奮(ふる)われ、
日磾出於降虜斯亦曩時版筑飯牛之朋矣
金日磾(もと休屠王の太子)は降服した虜(とりこ)から出され、これらもまた昔の城ぶしん者、牛飼(うしか)いたちの(賢者の)仲間である。
漢之得人於茲為盛儒雅則公孫弘董仲舒兒篤行則石建石慶
漢の人を得るは、これより盛んに為った。儒雅(じゅが)はすなわち公孫弘、董仲舒、児で、篤行(とっこう)はすなわち、石建、石慶で、
質直則汲黯卜式推賢則韓安國鄭當時
質直はすなわち汲黯、卜式で、推賢はすなわち韓安国、鄭当時で、
定令則趙禹張湯文章則司馬遷相如
定令はすなわち趙禹、張湯で、文章はすなわち司馬遷、司馬相如で、
滑稽則東方朔枚皋應對則嚴助朱買臣歷數則唐都落下閎
滑稽(口先がうまくてしゃれたことをいうこと)はすなわち東方朔、枚皋で、応対(おうたい)はすなわち厳助、朱買臣で、歴数(こよみ)はすなわち、唐都、落下閎で、
協律則李延年運籌則桑弘羊奉使則張騫蘇武將帥則衛青霍去病
協律(音律をととのえる)はすなわち李延年で、運籌はすなわち桑弘羊で、奉使はすなわち張騫、蘇武で、将帥はすなわち衛青、霍去病で、
受遺則霍光金日磾其餘不可勝紀
受遺は霍光、金日磾であった。その残りはすべて記(しる)すことはできない。
是以興造功業制度遺文後世莫及
ここに立派な事業を興(おこ)し制度を造(つく)るを以って、文化を遺(のこ)し、後世で及ぶものはなかった。
孝宣承統纂修洪業亦講論六藝招選茂異
漢孝宣帝劉詢が統治を承(うけたまわ)り、帝王業を纂修(資料を集め書物を編集すること)し、また六芸を講論(こうろん)し、茂異(もい 才能が優れている人)を選び招(まね)き、
而蕭望之梁丘賀夏侯勝韋玄成嚴彭祖尹更始以儒術進
しこうして蕭望之、梁丘賀、夏侯勝、韋玄成、嚴彭祖、尹更始が儒術を以って進(すす)め、
劉向王褒以文章顯
劉向、王褒は文章を以って顕(あきら)かになった。
將相則張安世趙充國魏相邴吉于定國杜延年
将相はすなわち張安世、趙充國、魏相、邴吉、于定國、杜延年で、
治民則黃霸王成龔遂鄭弘邵信臣韓延壽尹翁歸趙廣漢之屬
治民はすなわち黃霸、王成、龔遂、鄭弘、邵信臣、韓延壽、尹翁歸、趙廣漢のなかまで、
皆有功跡見述於後累其名臣亦其次也
皆(みな)功跡が有り、後(のち)に於いて述(の)べられた。その名臣をかさねるは、またその次(つぎ)である」と。
今日で史記 平津侯主父列伝は終わりです。次の南越列伝、次の東越列伝は以前に和訳してありますので、明日からは史記 朝鮮列伝に入ります。