左將軍破浿水上軍乃前至城下圍其西北
漢左將軍荀彘は浿水上の軍を破(やぶ)り、そこで前進して王険城下に至り、その西北を包囲した。
樓船亦往會居城右渠遂堅守城數月未能下
漢楼船将軍揚僕もまた会しに往(ゆ)き、王険城に居し、朝鮮王衛右渠は遂(つい)に王険城を堅守(けんしゅ)すること数ヶ月、未(ま)だ下(くだ)すことができなかった。
左將軍素侍中幸將燕代卒悍乘勝軍多驕
漢左將軍荀彘は素(もと)侍中で、かわいがられ、燕,代の兵を率(ひき)いて、勇ましく、勝ちに乗じて、軍の多くが驕(おご)っていた。
樓船將齊卒入海固已多敗亡
漢楼船将軍揚僕は斉の兵を率(ひき)いて、海に入り、固(もと)よりすでに多くが敗(やぶ)れ逃亡した。
其先與右渠戰因辱亡卒卒皆恐將心慚其圍右渠常持和節
その先(さき)んじて、朝鮮王衛右渠と戦い、兵を亡くした辱(はずかし)めに因(よ)り、兵は皆(みな)おそれ、まさに心は恥ずかしく思い、その朝鮮王衛右渠を包囲するは、常(つね)に親和の旗(はた)を持っていた。
左將軍急擊之朝鮮大臣乃陰使人私約降樓船往來言尚未肯決
漢左將軍荀彘はこれをにわかに撃(う)とうとし、朝鮮の大臣はそこで、ひそかにうかがい、
人をつかわしこっそりと漢楼船将軍揚僕に降(くだ)ることを約させようと、言を往き来させたが、尚(なお)未(ま)だ決めかねていた。
左將軍數與樓船期戰樓船欲急就其約不會
漢左將軍荀彘はたびたび漢楼船将軍揚僕と戦うことをを期(き)そうとしたが、漢楼船将軍揚僕は
急(いそ)いでその約束を成就しようと欲して、会(あ)わなかった。
左將軍亦使人求卻降下朝鮮朝鮮不肯心附樓船
漢左將軍荀彘もまた人をつかわしひそかに朝鮮をしりぞけ降下させることを求めさせたが、朝鮮はよしとせず、心は漢楼船将軍揚僕に附(つ)いた。
以故兩將不相能左將軍心意樓船前有失軍罪
故(ゆえ)を以って二人の将軍は互いに仲がわるかった。漢左將軍荀彘の心は漢楼船将軍揚僕が前(さき)に軍を失った罪があることを思い、
今與朝鮮私善而又不降疑其有反計未敢發
今、朝鮮とこっそり仲良くして、また(朝鮮は)降(くだ)らず、その謀反(むほん)の計(はか)り事が有ることを疑ったが、未(ま)だ敢(あ)えて口を開かなかった。
天子曰將率不能前(及)[乃]使衛山諭降右渠
天子(漢孝武帝劉徹)曰く、「まさに率(ひき)いて前進できず、そこで、衛山をつかわして朝鮮王衛右渠に降(くだ)ることを諭(さと)させ、
右渠遣太子山使不能剸決與左將軍計相誤卒沮約
朝鮮王衛右渠は朝鮮太子を遣(つか)わし、衛山は使いして自分の考えだけで決めることができず、漢左将軍荀彘とともに計(はか)って相(あい)誤(あやま)り、とうとう約束をだめにした。
今兩將圍城又乖異以故久不決
今、二人の将軍は王険城を包囲し、またくいちがい、故(ゆえ)を以って久しく決まらず。
使濟南太守公孫遂往(征)[正]之
済南太守公孫遂をつかわし往(ゆ)かせ、これを正(ただ)させる。
有便宜得以從事遂至左將軍曰
便(べん)を有して、宜(よろ)しく従事することを得るべし」と。済南太守公孫遂が至ると、漢左将軍荀彘曰く、
朝鮮當下久矣不下者有狀
「朝鮮はまさに下(くだ)らんとすること久(ひさ)しく、下(くだ)らないのは事情が有るのだ」と。
言樓船數期不會具以素所意告遂曰
漢楼船将軍揚僕はたびたび決めようとしても会(あ)わなかったことを言い、具(つぶさ)に素(もと)より思っているところを以って済南太守公孫遂に告げた、曰く、
今如此不取恐為大害非獨樓船又且與朝鮮共滅吾軍
「今、この如(ごと)く取らないでいれば、恐(おそ)らく大害を為すだろう。独(ひと)り楼船(揚僕)だけではなく、また、まさに朝鮮と共(とも)に吾(わ)が軍を滅ぼさんとするだろう」と。
遂亦以為然而以節召樓船將軍入左將軍營計事
済南太守公孫遂もまたその通りだと思い、しこうして、使者の旗(はた)を以って漢楼船将軍揚僕を召し寄せ、漢左将軍荀彘の軍営に入れて事を計(はか)った。
即命左將軍麾下執捕樓船將軍
そこで、漢左将軍荀彘の旗の下(もと)に漢楼船将軍揚僕を捕(と)らえつかまえることを命じた。
并其軍以報天子天子誅遂
その軍を併(あわ)せ、天子(漢孝武帝劉徹)に報告するを以ってした。天子(漢孝武帝劉徹)は済南太守公孫遂を誅(ちゅう)した。
左將軍已并兩軍即急擊朝鮮
漢左将軍荀彘はすでに二つの軍を併(あわ)せ、すなわち朝鮮をにわかに撃(う)った。
朝鮮相路人相韓陰尼谿相參將軍王唊相與謀曰
朝鮮相の路人、朝鮮相韓陰、尼谿相の参、尼谿将軍王唊は相(あい)ともに謀(はか)って曰く、
始欲降樓船樓船今執獨左將軍并將
「以前、楼船(揚僕)に降(くだ)ることを欲したが、楼船(揚僕)は今とらわれ、ただ左将軍(荀彘)だけが併(あわ)せ率(ひき)い、
戰益急恐不能與(戰)王又不肯降
戦いが益々(ますます)さしせまれば、恐(おそ)らく与(くみ)することはできず、王(衛右渠)もまた降(くだ)ることをよしとしないだろう」と。
陰唊路人皆亡降漢路人道死
朝鮮相韓陰、尼谿将軍王唊、朝鮮相路人は皆(みな)逃げて漢に降(くだ)った。朝鮮相路人は途中で死んだ。
元封三年夏尼谿相參乃使人殺朝鮮王右渠來降
元封三年夏、尼谿相参がそこで人をつかわし朝鮮王衛右渠を殺させ降(くだ)りに来た。
王險城未下故右渠之大臣成巳又反復攻吏
王険城が未(ま)だ下らないうちに、前の朝鮮王衛右渠の大臣の成巳がまた叛(そむ)き、ふたたび役人を攻(せ)めた。
左將軍使右渠子長降相路人之子最告諭其民
漢左将軍荀彘は朝鮮王衛右渠の子の衛長降、朝鮮相路人の子の最をつかわし、その民に諭(さと)し告げさせ、
誅成巳以故遂定朝鮮為四郡
朝鮮大臣成巳を誅させ、故(ゆえ)を以って遂(つい)に朝鮮を平定し、四郡をつくった。
封參為澅清侯陰為荻苴侯唊為平州侯長[降]為幾侯
尼谿相参を封じて澅清侯と為さしめ、朝鮮相韓陰を封じて荻苴侯と為さしめ、
尼谿将軍王唊を封じて平州侯と為さしめ、(朝鮮王衛右渠の子の)衛長降を封じて幾侯と為さしめた。
最以父死頗有功為溫陽侯
(朝鮮相路人の子の)最は父の死を以って頗(すこぶ)る功が有り、温陽侯と為さしめた。
左將軍徵至坐爭功相嫉乖計棄市
漢左将軍荀彘は呼び寄せて至ると、功を争(あらそ)って互いに嫉(そね)み、計画に逆らったことに罪を問われ、棄市罪になった。
樓船將軍亦坐兵至洌口當待左將軍
漢楼船将軍揚僕もまた兵が洌口に至り、まさに漢左将軍荀彘を待つべきで、
擅先縱失亡多當誅贖為庶人
思うままに先(さき)んじて放(はな)ち、失(うしな)い亡くすことが多く、誅に当てられ、罪を購(あがな)って庶人と為った。
太史公曰右渠負固國以絕祀
太史公曰く、「右渠はかたくなにそむいて、国は祭祀を絶(た)つを以ってした。
涉何誣功為兵發樓船將狹及難離咎
涉何は手柄(てがら)を強(し)いて、戦いの発端をつくり、楼船は兇(悪者 狹(きょう)=兇(きょう)?)を率(ひき)い、災難に及んで咎(とが)をこうむった。
悔失番禺乃反見疑
番禺での失敗を悔(く)やんで、そこで反(かえ)って疑(うたが)われた。
彘爭勞與遂皆誅兩軍俱辱將率莫侯矣
荀彘は功績を争い、公孫遂とともに皆(みな)誅された。両軍はともに辱(はずかし)められ、まさに率(ひき)いて侯になった者はだれもなし」と。
今日で史記 朝鮮列伝は終わりです。次の西南夷列伝は前に和訳してありますので、
明日からはその次の史記 司馬相如列伝に入ります。
漢左將軍荀彘は浿水上の軍を破(やぶ)り、そこで前進して王険城下に至り、その西北を包囲した。
樓船亦往會居城右渠遂堅守城數月未能下
漢楼船将軍揚僕もまた会しに往(ゆ)き、王険城に居し、朝鮮王衛右渠は遂(つい)に王険城を堅守(けんしゅ)すること数ヶ月、未(ま)だ下(くだ)すことができなかった。
左將軍素侍中幸將燕代卒悍乘勝軍多驕
漢左將軍荀彘は素(もと)侍中で、かわいがられ、燕,代の兵を率(ひき)いて、勇ましく、勝ちに乗じて、軍の多くが驕(おご)っていた。
樓船將齊卒入海固已多敗亡
漢楼船将軍揚僕は斉の兵を率(ひき)いて、海に入り、固(もと)よりすでに多くが敗(やぶ)れ逃亡した。
其先與右渠戰因辱亡卒卒皆恐將心慚其圍右渠常持和節
その先(さき)んじて、朝鮮王衛右渠と戦い、兵を亡くした辱(はずかし)めに因(よ)り、兵は皆(みな)おそれ、まさに心は恥ずかしく思い、その朝鮮王衛右渠を包囲するは、常(つね)に親和の旗(はた)を持っていた。
左將軍急擊之朝鮮大臣乃陰使人私約降樓船往來言尚未肯決
漢左將軍荀彘はこれをにわかに撃(う)とうとし、朝鮮の大臣はそこで、ひそかにうかがい、
人をつかわしこっそりと漢楼船将軍揚僕に降(くだ)ることを約させようと、言を往き来させたが、尚(なお)未(ま)だ決めかねていた。
左將軍數與樓船期戰樓船欲急就其約不會
漢左將軍荀彘はたびたび漢楼船将軍揚僕と戦うことをを期(き)そうとしたが、漢楼船将軍揚僕は
急(いそ)いでその約束を成就しようと欲して、会(あ)わなかった。
左將軍亦使人求卻降下朝鮮朝鮮不肯心附樓船
漢左將軍荀彘もまた人をつかわしひそかに朝鮮をしりぞけ降下させることを求めさせたが、朝鮮はよしとせず、心は漢楼船将軍揚僕に附(つ)いた。
以故兩將不相能左將軍心意樓船前有失軍罪
故(ゆえ)を以って二人の将軍は互いに仲がわるかった。漢左將軍荀彘の心は漢楼船将軍揚僕が前(さき)に軍を失った罪があることを思い、
今與朝鮮私善而又不降疑其有反計未敢發
今、朝鮮とこっそり仲良くして、また(朝鮮は)降(くだ)らず、その謀反(むほん)の計(はか)り事が有ることを疑ったが、未(ま)だ敢(あ)えて口を開かなかった。
天子曰將率不能前(及)[乃]使衛山諭降右渠
天子(漢孝武帝劉徹)曰く、「まさに率(ひき)いて前進できず、そこで、衛山をつかわして朝鮮王衛右渠に降(くだ)ることを諭(さと)させ、
右渠遣太子山使不能剸決與左將軍計相誤卒沮約
朝鮮王衛右渠は朝鮮太子を遣(つか)わし、衛山は使いして自分の考えだけで決めることができず、漢左将軍荀彘とともに計(はか)って相(あい)誤(あやま)り、とうとう約束をだめにした。
今兩將圍城又乖異以故久不決
今、二人の将軍は王険城を包囲し、またくいちがい、故(ゆえ)を以って久しく決まらず。
使濟南太守公孫遂往(征)[正]之
済南太守公孫遂をつかわし往(ゆ)かせ、これを正(ただ)させる。
有便宜得以從事遂至左將軍曰
便(べん)を有して、宜(よろ)しく従事することを得るべし」と。済南太守公孫遂が至ると、漢左将軍荀彘曰く、
朝鮮當下久矣不下者有狀
「朝鮮はまさに下(くだ)らんとすること久(ひさ)しく、下(くだ)らないのは事情が有るのだ」と。
言樓船數期不會具以素所意告遂曰
漢楼船将軍揚僕はたびたび決めようとしても会(あ)わなかったことを言い、具(つぶさ)に素(もと)より思っているところを以って済南太守公孫遂に告げた、曰く、
今如此不取恐為大害非獨樓船又且與朝鮮共滅吾軍
「今、この如(ごと)く取らないでいれば、恐(おそ)らく大害を為すだろう。独(ひと)り楼船(揚僕)だけではなく、また、まさに朝鮮と共(とも)に吾(わ)が軍を滅ぼさんとするだろう」と。
遂亦以為然而以節召樓船將軍入左將軍營計事
済南太守公孫遂もまたその通りだと思い、しこうして、使者の旗(はた)を以って漢楼船将軍揚僕を召し寄せ、漢左将軍荀彘の軍営に入れて事を計(はか)った。
即命左將軍麾下執捕樓船將軍
そこで、漢左将軍荀彘の旗の下(もと)に漢楼船将軍揚僕を捕(と)らえつかまえることを命じた。
并其軍以報天子天子誅遂
その軍を併(あわ)せ、天子(漢孝武帝劉徹)に報告するを以ってした。天子(漢孝武帝劉徹)は済南太守公孫遂を誅(ちゅう)した。
左將軍已并兩軍即急擊朝鮮
漢左将軍荀彘はすでに二つの軍を併(あわ)せ、すなわち朝鮮をにわかに撃(う)った。
朝鮮相路人相韓陰尼谿相參將軍王唊相與謀曰
朝鮮相の路人、朝鮮相韓陰、尼谿相の参、尼谿将軍王唊は相(あい)ともに謀(はか)って曰く、
始欲降樓船樓船今執獨左將軍并將
「以前、楼船(揚僕)に降(くだ)ることを欲したが、楼船(揚僕)は今とらわれ、ただ左将軍(荀彘)だけが併(あわ)せ率(ひき)い、
戰益急恐不能與(戰)王又不肯降
戦いが益々(ますます)さしせまれば、恐(おそ)らく与(くみ)することはできず、王(衛右渠)もまた降(くだ)ることをよしとしないだろう」と。
陰唊路人皆亡降漢路人道死
朝鮮相韓陰、尼谿将軍王唊、朝鮮相路人は皆(みな)逃げて漢に降(くだ)った。朝鮮相路人は途中で死んだ。
元封三年夏尼谿相參乃使人殺朝鮮王右渠來降
元封三年夏、尼谿相参がそこで人をつかわし朝鮮王衛右渠を殺させ降(くだ)りに来た。
王險城未下故右渠之大臣成巳又反復攻吏
王険城が未(ま)だ下らないうちに、前の朝鮮王衛右渠の大臣の成巳がまた叛(そむ)き、ふたたび役人を攻(せ)めた。
左將軍使右渠子長降相路人之子最告諭其民
漢左将軍荀彘は朝鮮王衛右渠の子の衛長降、朝鮮相路人の子の最をつかわし、その民に諭(さと)し告げさせ、
誅成巳以故遂定朝鮮為四郡
朝鮮大臣成巳を誅させ、故(ゆえ)を以って遂(つい)に朝鮮を平定し、四郡をつくった。
封參為澅清侯陰為荻苴侯唊為平州侯長[降]為幾侯
尼谿相参を封じて澅清侯と為さしめ、朝鮮相韓陰を封じて荻苴侯と為さしめ、
尼谿将軍王唊を封じて平州侯と為さしめ、(朝鮮王衛右渠の子の)衛長降を封じて幾侯と為さしめた。
最以父死頗有功為溫陽侯
(朝鮮相路人の子の)最は父の死を以って頗(すこぶ)る功が有り、温陽侯と為さしめた。
左將軍徵至坐爭功相嫉乖計棄市
漢左将軍荀彘は呼び寄せて至ると、功を争(あらそ)って互いに嫉(そね)み、計画に逆らったことに罪を問われ、棄市罪になった。
樓船將軍亦坐兵至洌口當待左將軍
漢楼船将軍揚僕もまた兵が洌口に至り、まさに漢左将軍荀彘を待つべきで、
擅先縱失亡多當誅贖為庶人
思うままに先(さき)んじて放(はな)ち、失(うしな)い亡くすことが多く、誅に当てられ、罪を購(あがな)って庶人と為った。
太史公曰右渠負固國以絕祀
太史公曰く、「右渠はかたくなにそむいて、国は祭祀を絶(た)つを以ってした。
涉何誣功為兵發樓船將狹及難離咎
涉何は手柄(てがら)を強(し)いて、戦いの発端をつくり、楼船は兇(悪者 狹(きょう)=兇(きょう)?)を率(ひき)い、災難に及んで咎(とが)をこうむった。
悔失番禺乃反見疑
番禺での失敗を悔(く)やんで、そこで反(かえ)って疑(うたが)われた。
彘爭勞與遂皆誅兩軍俱辱將率莫侯矣
荀彘は功績を争い、公孫遂とともに皆(みな)誅された。両軍はともに辱(はずかし)められ、まさに率(ひき)いて侯になった者はだれもなし」と。
今日で史記 朝鮮列伝は終わりです。次の西南夷列伝は前に和訳してありますので、
明日からはその次の史記 司馬相如列伝に入ります。