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史記 司馬相如列伝 始め

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司馬相如者蜀郡成都人也字長卿

司馬相如という者は蜀郡の成都の人であり、字(あざな)は長卿。

少時好讀書學擊劍故其親名之曰犬子

若い時、読書を好み、撃剣を学び、故(ゆえ)にその親はこれに名づけて曰く、犬子(けんし)と。

相如既學慕藺相如之為人更名相如

司馬相如はすでに学び、藺相如の人と為りを慕(した)い、相如と名を改(あらた)めた。

以貲為郎事孝景帝為武騎常侍非其好也

貲財(しざい)を以って郎(官名)に為り、漢孝景帝劉啓に仕(つか)え、武騎常侍と為ったが、その好むものではなかったのである。

會景帝不好辭賦是時梁孝王來朝

ちょうどこの時、漢孝景帝劉啓は辞賦(韻を使った文の総称)を好ます、この時、梁孝王劉武が来朝し、

從游說之士齊人鄒陽淮陰枚乘吳莊忌夫子之徒

遊説(ゆうぜい)の士の斉人の鄒陽、淮陰の枚乗、呉の莊忌先生の仲間を従(したが)え、

相如見而說之因病免客游梁

漢郎武騎常侍司馬相如は見(まみ)えてこれを悦(よろこ)び、病(やまい)に因(よ)りて免ぜられ、
梁に客遊(かくゆう)した。

梁孝王令與諸生同舍相如得與諸生游士居數歲乃著子虛之賦

梁孝王劉武は諸(もろもろ)の先生と宿舎を同じにさせ、司馬相如は諸の先生、遊説の士と
居することを得て数年、そこで「子虚の賦」を著(あらわ)した。

會梁孝王卒相如歸而家貧無以自業

この時、梁孝王劉武が亡くなり、司馬相如は帰ったが、家は貧しく、自(みずか)らを以ってなりわいとするものは無かった。

素與臨邛令王吉相吉曰長卿久宦遊不遂而來過我

素(もと)より臨邛令王吉と互いに仲がよく、臨邛令王吉曰く、「長卿(相如)は久しく仕官して他郷に住んで遂(と)げられなかったが、来て我(われ)のところに立ち寄られよ」と。

於是相如往舍都亭臨邛令繆為恭敬日往朝相如

ここに於いて司馬相如は往(ゆ)き、都亭に泊まった。臨邛令王吉はつつしんで恭敬を為し、毎日往(い)って司馬相如にあいさつした。

相如初尚見之后稱病使從者謝吉吉愈益謹肅

司馬相如は初(はじ)め、これに見(まみ)えることをこい願っていたが、後(のち)には病(やまい)と称(しょう)して従者をつかわし臨邛令王吉に謝(しゃ)させたが、臨邛令王吉は愈々(いよいよ)益々(ますます)つつしんだ。

臨邛中多富人而卓王孫家僮八百人

臨邛中には富豪(ふごう)が多く、しこうして、卓王孫の家の召使は八百人、

程鄭亦數百人二人乃相謂曰令有貴客為具召之

程鄭もまた数百人、二人はそこで、互いに謂(い)った、曰く、「令(臨邛令王吉)には貴い客が有り、酒食をしてこれを招待しよう」と。

并召令令既至卓氏客以百數

あわせて臨邛令王吉を招待した。臨邛令王吉がすでに至ると、卓氏の食客は一百人を以って数えた。

至日中謁司馬長卿長卿謝病不能往

真昼(まひる)に至り、司馬長卿(相如)を求めたが、司馬長卿(相如)は病(やまい)で往くことができないと謝(しゃ)した。

臨邛令不敢嘗食自往迎相如

臨邛令王吉は敢(あ)えて食事をあじわわず、みずから司馬相如を迎(むか)えに往(い)った。

相如不得已彊往一坐盡傾

司馬相如は已(や)むを得ず、強(し)いて往(ゆ)き、一座はことごとく酒を傾(かたむ)けた。

酒酣臨邛令前奏琴曰竊聞長卿好之願以自娛

宴たけなわになり、臨邛令王吉は前に進み出て琴(こと)を奏(かな)でて曰く、
「ひそかに聞くに長卿(司馬相如)はこれを好(この)むと。願わくは、自らを以って楽しまれよ」と。

相如辭謝為鼓一再行

司馬相如は辞(じ)して謝(しゃ)し、一、二のくだりを奏(かな)でた。

是時卓王孫有女文君新寡好音

この時、卓王孫に、夫を亡くしてまもない娘の文君が有り、音楽を好(この)んだ。

故相如繆與令相重而以琴心挑之

故(ゆえ)に司馬相如がつつましく臨邛令王吉と互いに尊重(そんちょう)しあっていたので、琴を以って心はこれをかつごうとしたのである。

相如之臨邛從車騎雍容雅甚都

司馬相如は臨邛に行き、車騎を従え、やわらいでしずかで雅(みやび)やかで甚(はなは)だ上品だった。

及飲卓氏弄琴文君竊從戶窺之心而好之恐不得當也

卓氏で飲み琴をかなでるに及んで、卓文君はひそかに戸からこれを窺(うかが)い、心は
悦(よろこ)びてこれを好(す)いたが、当(とう)を得(え)ないことを恐れたのである。

既罷相如乃使人重賜文君侍者通殷勤

すでに帰り、司馬相如はそこで人をつかわし卓文君に賜(たまわ)りものを重(かさ)ねさせ、
侍者は、男女の情交にとりついだ。

文君夜亡奔相如相如乃與馳歸成都

卓文君は夜、逃げて司馬相如に走り、司馬相如はそこでともに馳(は)せて成都に帰った。

家居徒四壁立卓王孫大怒曰女至不材我不忍殺不分一錢也

家はただ四つの壁(かべ)が立つだけのところに居(きょ)した。卓王孫は大いに怒って曰く、
「娘が財(ざい)のない者に至って、我(われ)は殺すには忍(しの)ばれないが、一銭も分けない」と。

人或謂王孫王孫終不聽文君久之不樂曰

人の或(あ)る者が卓王孫に謂(い)ったが、卓王孫はとうとう聴き入れなかった。
卓文君はこれを久しくして楽しまず、曰く、

長卿第俱如臨邛從昆弟假貸猶足為生何至自苦如此

「長卿(相如)はただともに臨邛に行けば、兄弟から借りれば、猶(なお)生活するに足るでしょう。
どうして自らをこの如(ごと)く苦しめるに至りましょうか」と。

相如與俱之臨邛盡賣其車騎

司馬相如はともに臨邛に行き、ことごとくその車騎を売り、

買一酒舍酤酒而令文君當鑪

一軒の酒屋を買って、酒を売り、しこうして卓文君に令して酒がめに当たらせた。

相如身自著犢鼻褌與保庸雜作滌器於市中

司馬相如身(み)みずからは、犢鼻褌(ふんどしの一種)を身につけ、雇(やと)い人とともに
いろいろな仕事をし、市中で器(うつわ)を洗った。

卓王孫聞而恥之為杜門不出

卓王孫は聞いてこれを恥(は)じ、門を閉ざして出なかった。

昆弟諸公更謂王孫曰有一男兩女所不足者非財也

兄弟、諸(もろもろ)の公は更(さら)に卓王孫に謂(い)った、曰く、
「一男二女を有するに、足らないところのものは財(ざい)では非(あら)ざるなり。

今文君已失身於司馬長卿長卿故倦游雖貧其人材足依也

今、卓文君はすでに身を司馬長卿(相如)にあずけ、司馬長卿(相如)は故(ゆえ)に巡り歩くことを
倦(う)み、貧しいと雖(いえど)も、その人材はたよるに足(た)りるのであり、

且又令客獨柰何相辱如此

且(か)つまた臨邛令の客で、よりによってどうしてこの如くを恥辱(ちじょく)とみるのですか」と。

卓王孫不得已分予文君僮百人錢百萬及其嫁時衣被財物

卓王孫は已(や)むを得ず、卓文君に召使百人、銭百万、及びその嫁いだ時の衣服、財物を分け与(あた)えた。

文君乃與相如歸成都買田宅為富人

卓文君はそこで司馬相如と成都に帰り、田宅を買って、富豪に為った。

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