漢王之敗彭城解而西也彭越皆復亡其所下城
漢王劉邦が彭城(楚の都 もと宋地)で敗(やぶ)れ包囲を解(と)いて西に進んだ。建成侯魏相国彭越は皆(みな)、その城邑を下(くだ)したところの逃げた者をもとにもどして、
獨將其兵北居河上漢王三年
独(ひと)りその兵を率(ひき)いて北に進み河上に居(い)た。漢王三年、
彭越常往來為漢游兵擊楚絕其後糧於梁地
建成侯魏相国彭越は常(つね)に漢の遊兵と為って行き来し、梁地に於いて楚を撃(う)ち、その背後の食糧を絶(た)った。
漢四年冬項王與漢王相距滎陽
漢四年冬、項王項羽(西楚覇王項羽)は漢王劉邦と栄陽(もと韓地)で対峙(たいじ)した。
彭越攻下睢陽外黃十七城項王聞之
建成侯魏相国彭越は睢陽(もと宋地)、外黄(もと魏地)の十七の城邑を攻(せ)め下(くだ)した。項王項羽(西楚覇王項羽)はこれを聞き、
乃使曹咎守成皋自東收彭越所下城邑
そこで、曹咎を使(つか)わして成皋(もと韓地)を守らせ、自ら東に進み建成侯魏相国彭越が下(くだ)したところの城邑を収(おさ)め、
皆復為楚越將其兵北走穀城漢五年秋
皆(みな)ふたたび楚と為した。建成侯魏相国彭越はその兵を率(ひき)いて北に穀城に逃げ走った。漢五年秋、
項王之南走陽夏彭越復下昌邑旁二十餘城
項王項羽(西楚覇王項羽)は南に陽夏に走り、建成侯魏相国彭越はふたたび昌邑の傍(かたわ)らの二十余城を下(くだ)した。
得穀十餘萬斛以給漢王食
穀物を十余万斛(こく 容量の単位)得て、漢王劉邦の食糧に給するを以ってした。
漢王敗使使召彭越并力擊楚越曰
漢王劉邦は敗(やぶ)れ、使者をつかわし建成侯魏相国彭越を召し寄せさせて力を併(あわ)せて楚を撃(う)とうとした。建成侯魏相国彭越曰く、
魏地初定尚畏楚未可去
「魏の地は定まったばかりで、尚(なお)楚を畏(おそ)れており、未(ま)だ離れるべきではありません」と。
漢王追楚為項籍所敗碧陵乃謂曰
漢王劉邦は楚を追いかけたが、碧陵で項籍(西楚覇王項羽)の敗(やぶ)られるところと為った。そこで謂(い)った、曰く、
諸侯兵不從為之柰何留侯曰
「諸侯兵は従わず、このためにはどうしたらよいか?」と。漢軍師留侯張良(留侯に封ぜられたのは漢六年正月)曰く、
齊王信之立非君王之意信亦不自堅
「斉王韓信の(斉王に)立つは、君王(漢王劉邦)の意(い)では非(あら)ず、斉王韓信もまた自らをかためず。
彭越本定梁地功多始君王以魏豹故
建成侯魏相国彭越は梁の地を本(もと)に平定し、功績が多く、以前、君王(漢王劉邦)は魏王魏豹の故(ゆえ)を以って
拜彭越為魏相國今豹死毋後且越亦欲王
建成侯魏相国彭越に官をさずけ魏相国と為しましたが、今、魏王魏豹が死んで子孫が無く、まさに建成侯魏相国彭越もまた王になることを欲さんとしており、
而君王不蚤定與此兩國約即勝楚
しこうして、君王(漢王劉邦)は早く定めず。この二つの国と約束すれば、すぐに楚に勝ちます。
睢陽以北至穀城皆以王彭相國
睢陽以北より穀城に至るまで、皆(みな)彭相國(建成侯魏相国彭越)を王にするを以ってし、
從陳以東傅海與齊王信齊王信家在楚
陳以東より海につくまで、斉王韓信に与えます。斉王韓信の家は楚に在(あ)り、
此其意欲復得故邑君王能出捐此地許二人
これ、その意はふたたびふるさとの邑を得ることを欲しています。君王(漢王劉邦)はこの地を出して与えると二人に約束することができれば、
二人今可致即不能事未可知也
二人は今、招(まね)くことができます。すなわちできなければ、事(こと)はどうなるかわかりません」と。
於是漢王乃發使使彭越如留侯策使者至
ここに於いて漢王劉邦はすなわち使者を発して、建成侯魏相国彭越をして漢軍師留侯張良の策(さく)の如(ごと)くさせた。漢使者が至り、
彭越乃悉引兵會垓下遂破楚
建成侯魏相国彭越はそこでことごとく兵を引いて垓下に会し、遂(つい)に楚を破り、
(五年)項籍已死春立彭越為梁王都定陶
功籍(西楚覇王項羽)はすでに死んだ。漢六年春、建成侯魏相国彭越を立てて梁王と為し、定陶を都(みやこ)とした。
漢王劉邦が彭城(楚の都 もと宋地)で敗(やぶ)れ包囲を解(と)いて西に進んだ。建成侯魏相国彭越は皆(みな)、その城邑を下(くだ)したところの逃げた者をもとにもどして、
獨將其兵北居河上漢王三年
独(ひと)りその兵を率(ひき)いて北に進み河上に居(い)た。漢王三年、
彭越常往來為漢游兵擊楚絕其後糧於梁地
建成侯魏相国彭越は常(つね)に漢の遊兵と為って行き来し、梁地に於いて楚を撃(う)ち、その背後の食糧を絶(た)った。
漢四年冬項王與漢王相距滎陽
漢四年冬、項王項羽(西楚覇王項羽)は漢王劉邦と栄陽(もと韓地)で対峙(たいじ)した。
彭越攻下睢陽外黃十七城項王聞之
建成侯魏相国彭越は睢陽(もと宋地)、外黄(もと魏地)の十七の城邑を攻(せ)め下(くだ)した。項王項羽(西楚覇王項羽)はこれを聞き、
乃使曹咎守成皋自東收彭越所下城邑
そこで、曹咎を使(つか)わして成皋(もと韓地)を守らせ、自ら東に進み建成侯魏相国彭越が下(くだ)したところの城邑を収(おさ)め、
皆復為楚越將其兵北走穀城漢五年秋
皆(みな)ふたたび楚と為した。建成侯魏相国彭越はその兵を率(ひき)いて北に穀城に逃げ走った。漢五年秋、
項王之南走陽夏彭越復下昌邑旁二十餘城
項王項羽(西楚覇王項羽)は南に陽夏に走り、建成侯魏相国彭越はふたたび昌邑の傍(かたわ)らの二十余城を下(くだ)した。
得穀十餘萬斛以給漢王食
穀物を十余万斛(こく 容量の単位)得て、漢王劉邦の食糧に給するを以ってした。
漢王敗使使召彭越并力擊楚越曰
漢王劉邦は敗(やぶ)れ、使者をつかわし建成侯魏相国彭越を召し寄せさせて力を併(あわ)せて楚を撃(う)とうとした。建成侯魏相国彭越曰く、
魏地初定尚畏楚未可去
「魏の地は定まったばかりで、尚(なお)楚を畏(おそ)れており、未(ま)だ離れるべきではありません」と。
漢王追楚為項籍所敗碧陵乃謂曰
漢王劉邦は楚を追いかけたが、碧陵で項籍(西楚覇王項羽)の敗(やぶ)られるところと為った。そこで謂(い)った、曰く、
諸侯兵不從為之柰何留侯曰
「諸侯兵は従わず、このためにはどうしたらよいか?」と。漢軍師留侯張良(留侯に封ぜられたのは漢六年正月)曰く、
齊王信之立非君王之意信亦不自堅
「斉王韓信の(斉王に)立つは、君王(漢王劉邦)の意(い)では非(あら)ず、斉王韓信もまた自らをかためず。
彭越本定梁地功多始君王以魏豹故
建成侯魏相国彭越は梁の地を本(もと)に平定し、功績が多く、以前、君王(漢王劉邦)は魏王魏豹の故(ゆえ)を以って
拜彭越為魏相國今豹死毋後且越亦欲王
建成侯魏相国彭越に官をさずけ魏相国と為しましたが、今、魏王魏豹が死んで子孫が無く、まさに建成侯魏相国彭越もまた王になることを欲さんとしており、
而君王不蚤定與此兩國約即勝楚
しこうして、君王(漢王劉邦)は早く定めず。この二つの国と約束すれば、すぐに楚に勝ちます。
睢陽以北至穀城皆以王彭相國
睢陽以北より穀城に至るまで、皆(みな)彭相國(建成侯魏相国彭越)を王にするを以ってし、
從陳以東傅海與齊王信齊王信家在楚
陳以東より海につくまで、斉王韓信に与えます。斉王韓信の家は楚に在(あ)り、
此其意欲復得故邑君王能出捐此地許二人
これ、その意はふたたびふるさとの邑を得ることを欲しています。君王(漢王劉邦)はこの地を出して与えると二人に約束することができれば、
二人今可致即不能事未可知也
二人は今、招(まね)くことができます。すなわちできなければ、事(こと)はどうなるかわかりません」と。
於是漢王乃發使使彭越如留侯策使者至
ここに於いて漢王劉邦はすなわち使者を発して、建成侯魏相国彭越をして漢軍師留侯張良の策(さく)の如(ごと)くさせた。漢使者が至り、
彭越乃悉引兵會垓下遂破楚
建成侯魏相国彭越はそこでことごとく兵を引いて垓下に会し、遂(つい)に楚を破り、
(五年)項籍已死春立彭越為梁王都定陶
功籍(西楚覇王項羽)はすでに死んだ。漢六年春、建成侯魏相国彭越を立てて梁王と為し、定陶を都(みやこ)とした。