Quantcast
Channel: 倭人伝を解く
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2176

漢王之敗彭城解

$
0
0
漢王之敗彭城解而西也彭越皆復亡其所下城

漢王劉邦が彭城(楚の都 もと宋地)で敗(やぶ)れ包囲を解(と)いて西に進んだ。建成侯魏相国彭越は皆(みな)、その城邑を下(くだ)したところの逃げた者をもとにもどして、

獨將其兵北居河上漢王三年

独(ひと)りその兵を率(ひき)いて北に進み河上に居(い)た。漢王三年、

彭越常往來為漢游兵擊楚絕其後糧於梁地

建成侯魏相国彭越は常(つね)に漢の遊兵と為って行き来し、梁地に於いて楚を撃(う)ち、その背後の食糧を絶(た)った。

漢四年冬項王與漢王相距滎陽

漢四年冬、項王項羽(西楚覇王項羽)は漢王劉邦と栄陽(もと韓地)で対峙(たいじ)した。

彭越攻下睢陽外黃十七城項王聞之

建成侯魏相国彭越は睢陽(もと宋地)、外黄(もと魏地)の十七の城邑を攻(せ)め下(くだ)した。項王項羽(西楚覇王項羽)はこれを聞き、

乃使曹咎守成皋自東收彭越所下城邑

そこで、曹咎を使(つか)わして成皋(もと韓地)を守らせ、自ら東に進み建成侯魏相国彭越が下(くだ)したところの城邑を収(おさ)め、

皆復為楚越將其兵北走穀城漢五年秋

皆(みな)ふたたび楚と為した。建成侯魏相国彭越はその兵を率(ひき)いて北に穀城に逃げ走った。漢五年秋、

項王之南走陽夏彭越復下昌邑旁二十餘城

項王項羽(西楚覇王項羽)は南に陽夏に走り、建成侯魏相国彭越はふたたび昌邑の傍(かたわ)らの二十余城を下(くだ)した。

得穀十餘萬斛以給漢王食

穀物を十余万斛(こく 容量の単位)得て、漢王劉邦の食糧に給するを以ってした。

漢王敗使使召彭越并力擊楚越曰

漢王劉邦は敗(やぶ)れ、使者をつかわし建成侯魏相国彭越を召し寄せさせて力を併(あわ)せて楚を撃(う)とうとした。建成侯魏相国彭越曰く、

魏地初定尚畏楚未可去

「魏の地は定まったばかりで、尚(なお)楚を畏(おそ)れており、未(ま)だ離れるべきではありません」と。

漢王追楚為項籍所敗碧陵乃謂曰

漢王劉邦は楚を追いかけたが、碧陵で項籍(西楚覇王項羽)の敗(やぶ)られるところと為った。そこで謂(い)った、曰く、

諸侯兵不從為之柰何留侯曰

「諸侯兵は従わず、このためにはどうしたらよいか?」と。漢軍師留侯張良(留侯に封ぜられたのは漢六年正月)曰く、

齊王信之立非君王之意信亦不自堅

「斉王韓信の(斉王に)立つは、君王(漢王劉邦)の意(い)では非(あら)ず、斉王韓信もまた自らをかためず。

彭越本定梁地功多始君王以魏豹故

建成侯魏相国彭越は梁の地を本(もと)に平定し、功績が多く、以前、君王(漢王劉邦)は魏王魏豹の故(ゆえ)を以って

拜彭越為魏相國今豹死毋後且越亦欲王

建成侯魏相国彭越に官をさずけ魏相国と為しましたが、今、魏王魏豹が死んで子孫が無く、まさに建成侯魏相国彭越もまた王になることを欲さんとしており、

而君王不蚤定與此兩國約即勝楚

しこうして、君王(漢王劉邦)は早く定めず。この二つの国と約束すれば、すぐに楚に勝ちます。

睢陽以北至穀城皆以王彭相國

睢陽以北より穀城に至るまで、皆(みな)彭相國(建成侯魏相国彭越)を王にするを以ってし、

從陳以東傅海與齊王信齊王信家在楚

陳以東より海につくまで、斉王韓信に与えます。斉王韓信の家は楚に在(あ)り、

此其意欲復得故邑君王能出捐此地許二人

これ、その意はふたたびふるさとの邑を得ることを欲しています。君王(漢王劉邦)はこの地を出して与えると二人に約束することができれば、

二人今可致即不能事未可知也

二人は今、招(まね)くことができます。すなわちできなければ、事(こと)はどうなるかわかりません」と。

於是漢王乃發使使彭越如留侯策使者至

ここに於いて漢王劉邦はすなわち使者を発して、建成侯魏相国彭越をして漢軍師留侯張良の策(さく)の如(ごと)くさせた。漢使者が至り、

彭越乃悉引兵會垓下遂破楚

建成侯魏相国彭越はそこでことごとく兵を引いて垓下に会し、遂(つい)に楚を破り、

(五年)項籍已死春立彭越為梁王都定陶

功籍(西楚覇王項羽)はすでに死んだ。漢六年春、建成侯魏相国彭越を立てて梁王と為し、定陶を都(みやこ)とした。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 2176

Trending Articles