六年朝陳九年十年皆來朝長安
漢六年、陳(楚の旧都 諸侯を陳に会した)に朝した。漢九年、十年とも皆(みな)長安に朝しに来た。
十年秋陳豨反代地高帝自往擊
漢十年秋、趙相国陳豨が代の地で叛(そむ)いた。漢高帝劉邦が自ら往(い)って撃(う)とうと、
至邯鄲徵兵梁王梁王稱病
(趙の)邯鄲に至り、梁王彭越に兵を召し寄せさせた。梁王彭越は病(やまい)と称(しょう)して、
使將將兵詣邯鄲高帝怒
梁将軍をつかわし兵を率(ひき)いさせて邯鄲に詣(もう)でさせた。漢高帝劉邦は怒(おこ)り、
使人讓梁王梁王恐欲自往謝
人をつかわし梁王彭越をしかり責めた。梁王彭越は恐れ、自ら往(い)って謝(しゃ)することを欲した。
其將扈輒曰王始不往
その(梁)将軍扈輒曰く、「王(梁王彭越)ははじめは往(ゆ)かず、
見讓而往往則為禽矣不如遂發兵反
しかり責められて往(ゆ)くのは、往(ゆ)けば禽囚(きんしゅう)と為るでしょう。遂(つい)に兵を発して叛(そむ)くにこしたことはありません」と。
梁王不聽稱病梁王怒其太仆欲斬之
梁王彭越は聴き入れず、病(やまい)と称(しょう)した。梁王彭越がその太僕(官名)を怒り、これを斬ることを欲した。
太仆亡走漢告梁王與扈輒謀反
梁太僕は漢に逃走し、梁王彭越と梁将扈輒が謀反(むほん)を起こそうとしていると告(つ)げた。
於是上使使掩梁王梁王不覺
ここに於いて上(うえ)は使者をつかわし梁王彭越をとらえさせた。梁王彭越は気がつかず、
捕梁王囚之雒陽有司治反形己具
梁王彭越を捕(とら)え、これを雒陽に繋(つな)いだ。有司(役人)が叛(そむ)いた形跡を取り調べ、すでに(己=已?)具(つぶさ)に取り調べられ、
請論如法上赦以為庶人傳處蜀青衣
法の如(ごと)く罪を定めることを請(こ)うた。上(うえ)は赦(ゆる)し庶人に為すを以ってし、馬車を次(つ)いで蜀(地方名)の青衣に住まわせることにした。
西至鄭逢呂后從長安來欲之雒陽
西に進み鄭に至ると、漢呂后(劉邦の后)が長安より来て雒陽に行こうと欲しているのに出逢った。
道見彭王彭王為呂后泣涕自言無罪
梁王彭越を見て語った。梁王彭越は漢呂后(劉邦の后)に涙(なみだ)を流して泣き、自ら罪が無いことを言い、
願處故昌邑呂后許諾與俱東至雒陽
ふるさとの昌邑に住むことを願った。漢呂后(劉邦の后)は許諾(きょだく)し、ともに東へ進み雒陽に至った。
呂后白上曰彭王壯士今徙之蜀
漢呂后(劉邦の后)は上(うえ)に告げて曰く、「彭王(梁王彭越)は壮士です。今、これを蜀に移せば、
此自遺患不如遂誅之妾謹與俱來
これ、自(みずか)ら患(うれ)いを遺(のこ)します。遂(つい)にはこれを誅(ちゅう)するにこしたことはありません。わたしが謹(つつし)んでともに連れて来ました」と。
於是呂后乃令其舍人彭越復謀反
ここに於いて漢呂后(劉邦の后)はすなわちその舎人に彭越がふたたび謀反をはかっていると告発させた。
廷尉王恬開奏請族之上乃可
漢廷尉王恬開はこれに族刑を請(こ)うを奏上した。上(うえ)はすなわちよいとし、
遂夷越宗族國除
遂(つい)に彭越の一族をたいらげ、国(梁国)は除(のぞ)かれた。
太史公曰魏豹彭越雖故賤然已席卷千里
太史公曰く、「魏豹、彭越は以前は身分が低かったと雖(いえど)も、然(しか)るに千里を席巻(せっけん)し終え、
南面稱孤喋血乘勝日有聞矣
南面して孤(王侯の自称)を称(しょう)した。血をすすって誓(ちか)い勝ちに乗(じょう)じて、
日に日に聞こえを有(ゆう)した。
懷畔逆之意及敗不死而虜囚
反逆の意(い)を懐(いだ)き、敗(やぶ)れるに及んで、死なずして虜囚(りょしゅう)となり、
身被刑戮何哉中材已上且羞其行
身(み)みずから刑戮(けいりく)を被(こうむ)ったのはどうしてだろうかな。中くらいの才能以上の
者ならばまさにその行いを羞(は)じるだろう、
況王者乎彼無異故智略絕人獨患無身耳
況(いわん)や王者ならばなおのことではないか。彼らには特別な理由は無かった、智略(ちりゃく)が人よりすぐれ、単に身(み)が無くなることを患(うれ)えただけである。
得攝尺寸之柄其雲蒸龍變
少しの権力を摂(と)れば、その雲(くも)が蒸(む)されて龍(りゅう)が変生(へんせい)
されることができ、
欲有所會其度以故幽囚而不辭云
その器量(きりょう)を実現できるところ有るを欲したからで、幽囚(ゆうしゅう 牢屋に押し込める)をことさらにしても辞(じ)さずを以ってしたと云(い)う」と。
今日で史記 魏豹彭越列伝は終わりです。明日からは史記 黥布列伝に入ります。
漢六年、陳(楚の旧都 諸侯を陳に会した)に朝した。漢九年、十年とも皆(みな)長安に朝しに来た。
十年秋陳豨反代地高帝自往擊
漢十年秋、趙相国陳豨が代の地で叛(そむ)いた。漢高帝劉邦が自ら往(い)って撃(う)とうと、
至邯鄲徵兵梁王梁王稱病
(趙の)邯鄲に至り、梁王彭越に兵を召し寄せさせた。梁王彭越は病(やまい)と称(しょう)して、
使將將兵詣邯鄲高帝怒
梁将軍をつかわし兵を率(ひき)いさせて邯鄲に詣(もう)でさせた。漢高帝劉邦は怒(おこ)り、
使人讓梁王梁王恐欲自往謝
人をつかわし梁王彭越をしかり責めた。梁王彭越は恐れ、自ら往(い)って謝(しゃ)することを欲した。
其將扈輒曰王始不往
その(梁)将軍扈輒曰く、「王(梁王彭越)ははじめは往(ゆ)かず、
見讓而往往則為禽矣不如遂發兵反
しかり責められて往(ゆ)くのは、往(ゆ)けば禽囚(きんしゅう)と為るでしょう。遂(つい)に兵を発して叛(そむ)くにこしたことはありません」と。
梁王不聽稱病梁王怒其太仆欲斬之
梁王彭越は聴き入れず、病(やまい)と称(しょう)した。梁王彭越がその太僕(官名)を怒り、これを斬ることを欲した。
太仆亡走漢告梁王與扈輒謀反
梁太僕は漢に逃走し、梁王彭越と梁将扈輒が謀反(むほん)を起こそうとしていると告(つ)げた。
於是上使使掩梁王梁王不覺
ここに於いて上(うえ)は使者をつかわし梁王彭越をとらえさせた。梁王彭越は気がつかず、
捕梁王囚之雒陽有司治反形己具
梁王彭越を捕(とら)え、これを雒陽に繋(つな)いだ。有司(役人)が叛(そむ)いた形跡を取り調べ、すでに(己=已?)具(つぶさ)に取り調べられ、
請論如法上赦以為庶人傳處蜀青衣
法の如(ごと)く罪を定めることを請(こ)うた。上(うえ)は赦(ゆる)し庶人に為すを以ってし、馬車を次(つ)いで蜀(地方名)の青衣に住まわせることにした。
西至鄭逢呂后從長安來欲之雒陽
西に進み鄭に至ると、漢呂后(劉邦の后)が長安より来て雒陽に行こうと欲しているのに出逢った。
道見彭王彭王為呂后泣涕自言無罪
梁王彭越を見て語った。梁王彭越は漢呂后(劉邦の后)に涙(なみだ)を流して泣き、自ら罪が無いことを言い、
願處故昌邑呂后許諾與俱東至雒陽
ふるさとの昌邑に住むことを願った。漢呂后(劉邦の后)は許諾(きょだく)し、ともに東へ進み雒陽に至った。
呂后白上曰彭王壯士今徙之蜀
漢呂后(劉邦の后)は上(うえ)に告げて曰く、「彭王(梁王彭越)は壮士です。今、これを蜀に移せば、
此自遺患不如遂誅之妾謹與俱來
これ、自(みずか)ら患(うれ)いを遺(のこ)します。遂(つい)にはこれを誅(ちゅう)するにこしたことはありません。わたしが謹(つつし)んでともに連れて来ました」と。
於是呂后乃令其舍人彭越復謀反
ここに於いて漢呂后(劉邦の后)はすなわちその舎人に彭越がふたたび謀反をはかっていると告発させた。
廷尉王恬開奏請族之上乃可
漢廷尉王恬開はこれに族刑を請(こ)うを奏上した。上(うえ)はすなわちよいとし、
遂夷越宗族國除
遂(つい)に彭越の一族をたいらげ、国(梁国)は除(のぞ)かれた。
太史公曰魏豹彭越雖故賤然已席卷千里
太史公曰く、「魏豹、彭越は以前は身分が低かったと雖(いえど)も、然(しか)るに千里を席巻(せっけん)し終え、
南面稱孤喋血乘勝日有聞矣
南面して孤(王侯の自称)を称(しょう)した。血をすすって誓(ちか)い勝ちに乗(じょう)じて、
日に日に聞こえを有(ゆう)した。
懷畔逆之意及敗不死而虜囚
反逆の意(い)を懐(いだ)き、敗(やぶ)れるに及んで、死なずして虜囚(りょしゅう)となり、
身被刑戮何哉中材已上且羞其行
身(み)みずから刑戮(けいりく)を被(こうむ)ったのはどうしてだろうかな。中くらいの才能以上の
者ならばまさにその行いを羞(は)じるだろう、
況王者乎彼無異故智略絕人獨患無身耳
況(いわん)や王者ならばなおのことではないか。彼らには特別な理由は無かった、智略(ちりゃく)が人よりすぐれ、単に身(み)が無くなることを患(うれ)えただけである。
得攝尺寸之柄其雲蒸龍變
少しの権力を摂(と)れば、その雲(くも)が蒸(む)されて龍(りゅう)が変生(へんせい)
されることができ、
欲有所會其度以故幽囚而不辭云
その器量(きりょう)を実現できるところ有るを欲したからで、幽囚(ゆうしゅう 牢屋に押し込める)をことさらにしても辞(じ)さずを以ってしたと云(い)う」と。
今日で史記 魏豹彭越列伝は終わりです。明日からは史記 黥布列伝に入ります。