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漢八年上從東垣還過趙

漢八年上從東垣還過趙 漢八年、上(うえ 漢高祖劉邦)は東垣より還(かえ)えり、趙に立ち寄った。 貫高等乃壁人柏人要之置廁 趙相貫高らはそこで柏人(県名)で人を避(さ)けて(壁=辟、避?)、要(かなめ)を厠(かわや)に置いた。 上過欲宿心動問曰縣名為何 上(うえ 漢高祖劉邦)は立ち寄って宿(やど)を欲したが、むなさわぎがして問うた、曰く、「県名は何というのか?」と。 曰柏人柏人者...

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廷尉以貫高事辭聞上曰

廷尉以貫高事辭聞上曰 漢廷尉が趙相貫高の事の言葉を以って申し上げた。上(うえ)曰く、 壯士誰知者以私問之 「壮士だ。誰か知る者がひそかにこれに問うを以ってせよ」と。 中大夫泄公曰臣之邑子素知之 漢中大夫泄公曰く、「わたしの邑(むら)の人で、素(もと)よりこれを知っています。 此固趙國立名義不侵為然諾者也 これまことに趙国では名分(めいぶん)が侵(おか)されずに、然諾(ぜんだく...

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張敖高后六年薨

張敖高后六年薨 趙王張敖は、漢高后呂雉六年に亡くなった。 子偃為魯元王以母呂后女故 子の張偃は魯元王に為った。母の呂后(呂雉)の娘の故(ゆえ)を以って、 呂后封為魯元王元王弱兄弟少 呂后(呂雉)は封じて魯元王と為したのである。魯元王張偃は弱く、兄弟は少なく、 乃封張敖他姬子二人壽為樂昌侯 そこで、趙王張敖の他の姫の子二人に封じ、張寿は楽昌侯と為り、 侈為信都侯高后崩諸呂無道...

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史記 魏豹彭越列伝 始め

魏豹者故魏諸公子也 魏豹という者は、旧魏国の諸(もろもろ)の公子である。 其兄魏咎故魏時封為寧陵君 その兄の魏咎は、旧魏の時、封じられて寧陵君と為った。 秦滅魏遷咎為家人陳勝之起王也 秦が魏を滅ぼしたとき、寧陵君魏咎は召使と為った。陳勝の王に立ち上がったとき、 咎往從之陳王使魏人周市徇魏地 魏咎はこれに従って往(い)った。陳王(張楚王陳勝)は魏人の周市をつかわし魏の地を求めさせた。...

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漢王還定三秦渡臨晉魏王豹以國屬焉

漢王還定三秦渡臨晉魏王豹以國屬焉 漢王劉邦は還(かえ)って三秦を平定し、臨晋で(河を)渡(わた)った。(西)魏王魏豹は国を以って服属した。 遂從擊楚於彭城漢敗還至滎陽 遂(つい)に従(したが)って彭城(西楚の都)に於いて楚を撃(う)った。漢は敗(やぶ)れ、還(かえ)って栄陽(旧韓地)に至ると、 豹請歸視親病至國即絕河津畔漢...

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彭越者昌邑人也字仲

彭越者昌邑人也字仲 彭越という者は昌邑(栄陽(旧韓地 それ以前は鄭地)の東北、碭(旧梁(魏)地)の北)の人であり、字(あざな)は仲。 常漁鉅野澤中為群盜 常(つね)に鉅野の沢中で漁(りょう)をしたり、群盗に為ったりしていた。 陳勝項梁之起少年或謂越曰 陳勝、項梁が立ち上がると、少年の或(あ)る者が彭越に謂(い)った、曰く、 諸豪桀相立畔秦仲可以來亦效之...

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漢王之敗彭城解

漢王之敗彭城解而西也彭越皆復亡其所下城 漢王劉邦が彭城(楚の都 もと宋地)で敗(やぶ)れ包囲を解(と)いて西に進んだ。建成侯魏相国彭越は皆(みな)、その城邑を下(くだ)したところの逃げた者をもとにもどして、 獨將其兵北居河上漢王三年 独(ひと)りその兵を率(ひき)いて北に進み河上に居(い)た。漢王三年、 彭越常往來為漢游兵擊楚絕其後糧於梁地...

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六年朝陳九年十年皆來朝長安

六年朝陳九年十年皆來朝長安 漢六年、陳(楚の旧都 諸侯を陳に会した)に朝した。漢九年、十年とも皆(みな)長安に朝しに来た。 十年秋陳豨反代地高帝自往擊 漢十年秋、趙相国陳豨が代の地で叛(そむ)いた。漢高帝劉邦が自ら往(い)って撃(う)とうと、 至邯鄲徵兵梁王梁王稱病 (趙の)邯鄲に至り、梁王彭越に兵を召し寄せさせた。梁王彭越は病(やまい)と称(しょう)して、 使將將兵詣邯鄲高帝怒...

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史記 黥布列伝 始め

黥布者六人也姓英氏 黥布という者は、六(楚の地名)の人で、姓名は英氏。 秦時為布衣少年有客相之曰 秦の時代に庶民に為った。少年のとき、これの人相を見た客が有り、曰く、 當刑而王及壯坐法黥 「まさに刑されて王となるべし」と。壮年になる及んで、法に連座して黥刑(いれずみの刑)に処された。 布欣然笑曰人相我當刑而王...

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番君以其女妻之章邯之滅陳勝

番君以其女妻之章邯之滅陳勝 番君吳芮はその娘を以ってこれに娶(めと)らせた。秦将章邯が張楚王陳勝を滅(ほろ)ぼし、 破呂臣軍布乃引兵北擊秦左右校 呂臣軍を破(やぶ)った。英布(黥布)はそこで兵を引いて北に進み、秦の左右の校尉を撃(う)ち、 破之清波引兵而東 これを清波で破(やぶ)り、兵を引いて東へ進んだ。 聞項梁定江東會稽涉江而西 楚将項梁が江東の会稽を平定したと聞き、江を渉(わた)りて西へ進んだ。...

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漢二年齊王田榮畔楚

漢二年齊王田榮畔楚項王往擊齊 漢二年、斉王田栄は楚に叛(そむ)き、項王(西楚覇王項羽)は往(い)って斉を撃(う)とうとし、徵兵九江九江王布稱病不往 兵を九江で徴集(ちょうしゅう)しようとしたが、九江王英布(黥布)は病(やまい)を称して往(ゆ)かず、 遣將將數千人行漢之敗楚彭城 将軍を遣(つか)わして数千人を率(ひき)いて行かせた。漢の楚の彭城で敗(やぶ)るに、 布又稱病不佐楚項王由此怨布...

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隨何曰漢王使臣敬進書大王御者

隨何曰漢王使臣敬進書大王御者 漢謁隨何曰く、「漢王(劉邦)はわたしをつかわしてつつしんで書状を大王(九江王英布(黥布))御大に進めたのは、 竊怪大王與楚何親也淮南王曰 ひそかに大王(九江王英布(黥布)が、楚とどうして親しいのか不思議に思っていたからです」と。淮南王(九江王英布(黥布))曰く、 寡人北鄉而臣事之隨何曰...

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楚使者在方急責英布發兵

楚使者在方急責英布發兵 楚使者が在(あ)り、まさにはげしく九江王英布(黥布)に兵を発するよう求めた。 舍傳舍隨何直入坐楚使者上坐 伝舎(下等の宿舎)に泊(と)まらせた。漢謁者隨何は真っしぐらに入り、楚使者の上座(かみざ)に坐(すわ)った。 曰九江王已歸漢楚何以得發兵 曰く、「九江王(英布(黥布))はすでに漢に帰属し、楚がどうして兵を発させ得るを以ってするのか?」 布愕然楚使者起何因說布曰...

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項籍死天下定上置酒

項籍死天下定上置酒 西楚覇王項籍(項羽)が死に、天下は平定され、上(漢高帝劉邦)は酒宴を設けた。 上折隨何之功謂何為腐儒 上(漢高帝劉邦)は、漢謁者隨何の手柄(てがら)を判断し、彼は腐(くさ)れ儒者(じゅしゃ)だと思う、 為天下安用腐儒隨何跪曰 天下の為(ため)にどうして腐(くさ)れ儒者(じゅしゃ)を用いようか、と謂(い)った。漢謁者隨何は跪(ひざまず)いて曰く、 夫陛下引兵攻彭城楚王未去齊也...

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布所幸姬疾請就醫

今日二度目の投稿になります。 布所幸姬疾請就醫醫家與中大夫賁赫對門 淮南王英布(黥布)が寵愛するところの姫(ひめ)が病(やまい)にかかり、医者におもむくことを請(こ)うた。医者の家は淮南中大夫賁赫の家と門(もん)を向かい合わせ、姬數如醫家賁赫自以為侍中乃厚餽遺 姫がたびたび医者の家に行ったので、淮南中大夫賁赫は自(みずか)ら中(なか)で侍(はべ)ろうと思い、そこで厚く贈り物をして...

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淮南王布見赫以罪亡上變

淮南王布見赫以罪亡上變 淮南王英布(黥布)は淮南中大夫賁赫が罪を以って逃げたのをまのあたりにして、変事を申し上げ  固已疑其言國陰事漢使又來 いうまでもなくすでにその国の陰事を言ったと疑(うたが)っていた。漢使者がまた来て、 頗有所驗遂族赫家發兵反 頗(すこぶ)る調べるところ有り、遂(つい)に淮南中大夫賁赫の家を族刑にし、兵を発して叛(そむ)いた。 反書聞上乃赦賁赫以為將軍...

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布之初反謂其將曰

布之初反謂其將曰 淮南王英布(黥布)の叛(そむ)いたばかりのとき、その将軍に謂(い)った、曰く、 上老矣厭兵必不能來使諸將 「上(漢高帝劉邦)は老(お)いて戦いを厭(いと)い、必ず来ることはできないだろう。諸(もろもろ)の将軍をつかわしても、 諸將獨患淮陰彭越今皆已死餘不足畏也...

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史記 淮陰侯列伝 始め

淮陰侯韓信者淮陰人也始為布衣時 淮陰侯韓信という者は、淮陰の人である。以前、官位の無かった時、 貧無行不得推擇為吏又不能治生商賈 貧(まず)しくみもちが無く、推選(すいせん)を得て役人に為れず、また、商売をして生活をととのえることもできず、 常從人寄食飲人多厭之者 常(つね)に人から飲食をたよって、人はこれを厭(いと)う者が多かった。 常數從其下鄉南昌亭長寄食數月...

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及項梁渡淮信杖劍從之

及項梁渡淮信杖劍從之 楚将項梁が淮を渡(わた)るに及んで、韓信は剣を杖(つえ)にしてこれに従い、 居戲下無所知名項梁敗 旗下に居(い)たが、名を知られなかった。楚将項梁が敗(やぶ)れ、 又屬項羽羽以為郎中 また楚将項羽に属(ぞく)し、楚将項羽は楚郎中と為すを以ってした。 數以策干項羽羽不用漢王之入蜀...

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至南鄭諸將行道亡者數十人

至南鄭諸將行道亡者數十人 南鄭に至り、(漢の)諸将は行きながら道々(みちみち)で逃亡した者は数十人。 信度何等已數言上上不我用即亡 漢治粟都尉韓信は漢丞相蕭何らがすでにたびたび言上したが、上(漢王劉邦)は我(われ)を用(もち)いないと考え、すなわち逃げた。 何聞信亡不及以聞自追之...

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