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Channel: 倭人伝を解く
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毅對曰以臣不能得先主之意則

毅對曰以臣不能得先主之意則 秦上卿蒙毅は応(こた)えて曰く、「わたしが先の主(あるじ 秦始皇帝)の意(い)を得ることができなかったのを以ってすれば、 臣少宦順幸沒世可謂知意矣 わたしは宮づかえを欠(か)き、幸(宗族に罪が及ばないことの幸い)に従(したが)って世(よ)に没(ぼっ)していたので、(わたしは先主の)意(い)を知っていたと謂(い)うべきや。 以臣不知太子之能則太子獨從周旋天下...

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昔者秦穆公殺三良而死

昔者秦穆公殺三良而死 むかし、秦穆公嬴任好(または秦繆公とも)三人の良臣にして死をして殺し(殉死させ)、 罪百里奚而非其罪也 百里奚にしてその罪に非(あら)ざるを罪(つみ)したので、 故立號曰繆 故(ゆえ)に号を立てて曰く、繆(あやまり、まちがい)と。 昭襄王殺武安君白起楚平王殺伍奢 秦昭襄王赢稷は秦武安君白起を殺した。楚平王熊居は楚太傅伍奢(伍子胥の父)を殺しました。吳王夫差殺伍子胥此四君者...

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昔周成王初立

昔周成王初立未離襁緥周公旦負王以朝 昔、周成王姫誦が立って初めのとき、襁緥(むつき ねんねこ)から離れないうちに、周公旦(姫旦)は王を背負(せお)って政治をとるを以ってし、 卒定天下及成王有病甚殆 とうとう天下を平定しました。周成王姫誦が病(やまい)が甚(はなは)だあぶないときが有るに及んで、 公旦自揃其爪以沈於河曰...

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故周書曰必參而伍之

故(ゆえ)に周書曰く、必ず参(三卿)にして伍(五大夫)に審議せよ、と。 今恬之宗世無二心而事卒如此 今、わたしの宗族は代々、二心(ふたごころ)無くして仕(つか)えてきましたが、にわかにこの如(ごと)くは、 是必孽臣逆亂內陵之道也 これ、必ず悪い家臣がそむき乱れ、内(うち)に道において凌(しの)いでいるからです。 夫成王失而復振則卒昌桀殺關龍逢...

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史記 張耳陳余列伝 始め

張耳者大梁人也其少時及魏公子毋忌為客 張耳という者は、大梁(魏の都)の人である。その青年時、魏公子の魏毋忌(魏無忌)が食客と為すに及(およ)んだ。 張耳嘗亡命游外黃外黃富人女甚美 張耳は嘗(かつ)て名をかくして外黄(魏の領地)に遊説したことがあった。外黄(魏の領地)の富豪の人の娘は甚(はなは)だ美しく、 嫁庸奴亡其夫去抵父客...

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秦之滅大梁也

秦之滅大梁也張耳家外黃 秦の大梁(魏の都)を滅(ほろ)ぼしたときは、魏外黄令張耳は外黄に家を構(かま)えていた。 高祖為布衣時嘗數從張耳游 漢高祖(劉邦)が官位がなかった時、たびたび魏外黄令張耳に従って遊説し、 客數月秦滅魏數歲 客すること数ヶ月。秦が魏を滅(ほろ)ぼして数年、 已聞此兩人魏之名士也 すでにこの両人(張耳、陳余)は魏の名士であると聞き、 購求有得張耳千金陳餘五百金...

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今始至陳而王之示天下私

今始至陳而王之示天下私 今、陳(楚の都だったところ 寿春の前)に至ったばかりにして王になるのは天下に私心(ししん)を示(しめ)します。 願將軍毋王急引兵而西 願わくは将軍(陳勝)は王になることなく、急(いそ)いで兵を引いて西へ進み、 遣人立六國後自為樹黨 人を遣(つか)わし六国の後継(こうけい)を立てさせ、自(みずから)は党(とう)の樹立(じゅりつ)を為してください。 為秦益敵也敵多則力分...

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武臣等從白馬渡河至諸縣

武臣等從白馬渡河至諸縣 陳(張楚)将軍武臣らは白馬(地名)より河を渡(わた)り、諸(もろもろ)の県に至(いた)り、說其豪桀曰秦為亂政虐刑以殘賊天下 その豪傑(ごうけつ)に説(と)いた、曰く、「秦は乱れた政治、残虐な刑罰を為し、天下をいためつけ傷つけるを以ってすること、 數十年矣北有長城之役南有五嶺之戍 数十年や。北に長城の夫役(ふえき)を有(ゆう)し、南に五嶺の国境警備を有(ゆう)し、...

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乃引兵東北擊范陽

乃引兵東北擊范陽范陽人蒯通說范陽令曰 そこで、兵を引いて東北に范陽を撃(う)とうとした。范陽人の蒯通が范陽令に説(と)いた、曰く、 竊聞公之將死故弔雖然賀公得通而生 「ひそかに聞くに公(こう)のまさに死なんとすると。故(ゆえ)にあわれみます。 然(しか)りと雖(いえど)も、公(こう)がわたしを得(え)て生きることができるのをよろこびます」と。 范陽令曰何以弔之對曰...

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范陽令乃使蒯通見武信君曰

范陽令乃使蒯通見武信君曰 范陽令はそこで蒯通をして陳(張楚)武信君武臣に見(まみ)えさせて、曰く、 足下必將戰勝然後略地攻得然後下城 足下は必ずまさに戦勝して然(しか)る後に地を略取し、攻め得て然(しか)る後城邑を下(くだ)さんとしていますが、 臣竊以為過矣誠聽臣之計 わたしはひそかに過(あやま)ちだと思います。誠(まこと)にわたしの計(はか)りごとを聴き入れれば、 可不攻而降城不戰而略地...

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至邯鄲張耳陳餘聞

至邯鄲張耳陳餘聞周章軍入關 邯鄲(かつての趙の都)にいたると、陳(張楚)左校尉張耳、陳(張楚)右校尉陳余は、陳(張楚)将軍周章(周文)の軍が関に入り、 至戲卻又聞諸將為陳王徇地 戲に至って退却したと聞いた。また、諸(もろもろ)の将軍が陳(張楚)王陳勝のために土地を求めても、 多以讒毀得罪誅怨陳王不其筴不以為將而以為校尉...

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陳王使使者賀趙

今日二回目の投稿になります。 陳王使使者賀趙令趣發兵西入關 陳(張楚)王陳勝は使者をつかわして趙を祝賀させ、兵を発して西へ関に入るよう促(うなが)した。 張耳陳餘說武臣曰王王趙 趙右丞相張耳、趙大将軍陳余は趙王武臣に説(と)いた曰く、「王が趙で王になるは、 非楚意特以計賀王楚已滅秦 楚の意(い)では非(あら)ず、ただ計(はか)りごとを以って王を祝賀しているだけです。楚が秦を滅ぼし終えたら、...

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有廝養卒謝其舍中曰吾為公說燕

有廝養卒謝其舍中曰吾為公說燕 召使の養卒(役職名)がおり、その兵舎の中に謝(しゃ)して曰く、「吾(われ)は公(こう)たちの為に燕を説(と)き、 與趙王載歸舍中皆笑曰 趙王(趙王武臣)とともに馬車に載(の)せて帰しましょう」と。兵舎の中の者は皆(みな)笑って曰く、 使者往十餘輩輒死若何以能得王...

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李良已定常山

李良已定常山還報趙王復使良略太原 趙将李良がすでに常山を平定し、還(かえ)り報告した。趙王武臣はふたたび李良をして太原を略取させた。 至石邑秦兵塞井陘未能前 石邑に至り、秦兵が井陘を塞(ふさ)ぎ、未(ま)だ前に進むことができないうちに、 秦將詐稱二世使人遺李良書不封 秦将軍が偽(いつわ)って秦二世皇帝と称(しょう)して人をして趙将李良に封をしていない書状を送らせた。 曰良嘗事我得顯幸...

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章邯引兵至邯鄲皆徙其民河內

章邯引兵至邯鄲皆徙其民河內 秦将章邯は兵を引いて邯鄲に至ると、皆(みな)その民(たみ)を河内に移(うつ)し、 夷其城郭張耳與趙王歇走入鉅鹿城 その城郭(じょうかく)を滅(ほろ)ぼした。趙右丞相張耳は趙王趙歇とともに逃走し鉅鹿城に入った。 王離圍之陳餘北收常山兵 秦将王離がこれを包囲(ほうい)した。趙大将軍陳余は北に常山の兵を収(おさ)め、 得數萬人軍鉅鹿北 数万人を得て、鉅鹿の北に軍営をしいた。...

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陳餘曰吾度前終不能救趙徒盡亡軍

陳餘曰吾度前終不能救趙徒盡亡軍 趙大将軍陳余曰く、「吾(われ)は前進しても終いまで趙を救うことはできず、無駄に軍を滅ぼし尽(つ)くすだけであると考える。 且餘所以不俱死欲為趙王張君報秦 且(か)つ、わたしがともに死なないことを以ってするところとは、趙王、張君の為(ため)に秦に報(むく)いることを欲しているからだ。 今必俱死如以肉委餓虎何益...

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於是趙王歇張耳乃得出鉅鹿謝諸侯

於是趙王歇張耳乃得出鉅鹿謝諸侯 ここに於いて趙王趙歇、趙丞相張耳はすなわち鉅鹿を出ることを得て、諸侯に謝(しゃ)した。 張耳與陳餘相見責讓陳餘以不肯救趙 趙丞相張耳は趙大将軍陳余とともに相(あい)見(まみ)え、趙大将軍陳余が趙を救うことをよしとせずを以ってしたことを責(せ)めしかった。 及問張黶陳澤所在陳餘怒曰...

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趙王歇復居信都

趙王歇復居信都張耳從項羽諸侯入關 趙王趙歇はまた信都に住んだ。趙丞相張耳は楚上将軍項羽と諸侯に従って関に入った。 漢元年二月項羽立諸侯王張耳雅游 漢元年二月、西楚覇王項羽は諸侯、王を立て、趙丞相張耳はよく人とつきあい、 人多為之言項羽亦素數聞張耳賢 人の多くがこの言(げん)を為し、西楚覇王項羽もまた素(もと)よりたびたび趙丞相張耳の賢さを聞いており、 乃分趙立張耳為常山王治信都信都更名襄國...

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陳餘已敗張耳皆復收趙地

陳餘已敗張耳皆復收趙地 (趙地の)成安君陳余がすでに(趙地の)常山王張耳を破(やぶ)り、皆(みな)趙の地を収(おさ)めてもとに戻(もど)し、 迎趙王於代復為趙王 趙王趙歇を(趙地の)代より迎(むか)え、ふたたび趙王と為した。 趙王陳餘立以為代王 趙王趙歇は(趙地の)成安君陳余を恩(おん)に思い、立てて代王と為すを以ってしたが、 陳餘為趙王弱國初定不之國...

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漢七年高祖從平城過趙

漢七年高祖從平城過趙 漢七年、漢高祖劉邦は平城から趙に立ち寄り、 趙王朝夕袒韛蔽自上食禮甚卑 趙王張敖は朝と夕方、袒(左の肩の衣をぬぐ礼式)して、ひざかけ(まえだれ)をして(韛蔽(蔽(ひざの前をおおうもの)、韠=ひざかけ より韛=韠?)自(みずか)ら食事を上(のぼ)らせ、礼(れい)は甚(はなは)だへりくだり、 有子婿禮高祖箕踞詈甚慢易之...

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