故(ゆえ)に周書曰く、必ず参(三卿)にして伍(五大夫)に審議せよ、と。
今恬之宗世無二心而事卒如此
今、わたしの宗族は代々、二心(ふたごころ)無くして仕(つか)えてきましたが、にわかにこの如(ごと)くは、
是必孽臣逆亂內陵之道也
これ、必ず悪い家臣がそむき乱れ、内(うち)に道において凌(しの)いでいるからです。
夫成王失而復振則卒昌桀殺關龍逢
それ、周成王姫誦は失敗しながらふたたび救われ、すなわちついに栄(さか)えました。夏帝夏后桀が関龍逢を殺し
紂殺王子比干而不悔身死則國亡
殷帝子辛(紂王)が殷王子の子比干を殺しながら悔(く)やまず、身(み)は死してすなわち国は亡(ほろ)びました。
臣故曰過可振而諫可覺也察於參伍
わたしは故(ゆえ)に曰く、過(あやま)ちは救(すく)うことができて諌(いさ)めは悟(さと)らせることができるのであると。三卿五大夫に於いてつまびらかにするは、
上聖之法也凡臣之言非以求免於咎也
上聖の法であります。凡(およ)そ、わたしの言(げん)は、咎(とが)を免(まぬか)れることを求めるを以ってするのでは非(あら)ざるなり。
將以諫而死願陛下為萬民思從道也
まさに諌(いさ)めるを以ってして死なんとし、願わくは陛下には万民の為(ため)に思い道(みち)に従(したが)ってください」と。
使者曰臣受詔行法於將軍
秦使者曰く、「わたしは詔(みことのり)をさずかって刑罰を将軍に於いて行(おこな)い、
不敢以將軍言聞於上也蒙恬喟然太息曰
敢(あ)えて将軍(蒙恬)の言(げん)を以って上(うえ)に於いて申し上げることはしません」と。秦内史将軍蒙恬は喟然(きぜん)とため息をついて曰く、
我何罪於天無過而死乎
「我(われ)は何(なに)を天(てん)に於いて罪(つみ)したのか。過(あやま)ち無くして死するのか?」と。
良久徐曰恬罪固當死矣起臨洮屬之遼東
しばらくたって、おもむろに曰く、「わたしの罪(つみ)はきっと死罪に当(あ)たるのだ。
臨洮(地名)にはじまり遼東(地名)に連(つら)ね、
城塹萬餘里此其中不能無絕地脈哉
築いたり掘(ほ)ったりすること一万余里。これ、その中途では地脈(ちみゃく)を絶(た)ちきらずにはできなかったであろうかな。
此乃恬之罪也乃吞藥自殺
これがすなわちわたしの罪(つみ)なのである」と。そこで毒薬を呑(の)んで自殺した。
太史公曰吾適北邊自直道歸
太史公曰く、「吾(われ)は北の辺境におもむき、直道より帰った。
行觀蒙恬所為秦筑長城亭障塹山堙谷
行って蒙恬が秦の為(ため)に築いたところの長城、亭障(高楼のあるとりで)を観(み)た。山を掘り谷(たに)をうめ、
通直道固輕百姓力矣夫秦之初滅諸侯
直道を通(つう)じるは、まことに百姓の労役を軽(かろ)んじていた。それ、秦の諸侯を滅ぼした初めのときは、
天下之心未定痍傷者未瘳而恬為名將
天下の心(こころ)は未(ま)ま定まらないうちで、負傷者は未(ま)だなおらないうちで、しこうして、蒙恬は名将として、
不以此時彊諫振百姓之急養老存孤
この時を以って強く諌(いさ)めず、百姓の急(きゅう)を救(すく)わず、老人を養(やしな)わず、戦争孤児を存(ながら)えさせず
務修眾庶之和而阿意興功此其兄弟遇誅
多くの民の和(わ)を修めることに務(つと)めなかった。しこうして、意(い)に阿(おもね)って
功績を興(おこ)した。ここにその兄弟が誅(ちゅう)に遇(あ)わされたのは、
不亦宜乎何乃罪地脈哉
なんともっともなことではないか。どうして、すなわち地脈に罪(つみ)したであろうかな」と。
今日で史記 蒙恬列伝は終わりです。明日からは史記 張耳陳余列伝に入ります。
今恬之宗世無二心而事卒如此
今、わたしの宗族は代々、二心(ふたごころ)無くして仕(つか)えてきましたが、にわかにこの如(ごと)くは、
是必孽臣逆亂內陵之道也
これ、必ず悪い家臣がそむき乱れ、内(うち)に道において凌(しの)いでいるからです。
夫成王失而復振則卒昌桀殺關龍逢
それ、周成王姫誦は失敗しながらふたたび救われ、すなわちついに栄(さか)えました。夏帝夏后桀が関龍逢を殺し
紂殺王子比干而不悔身死則國亡
殷帝子辛(紂王)が殷王子の子比干を殺しながら悔(く)やまず、身(み)は死してすなわち国は亡(ほろ)びました。
臣故曰過可振而諫可覺也察於參伍
わたしは故(ゆえ)に曰く、過(あやま)ちは救(すく)うことができて諌(いさ)めは悟(さと)らせることができるのであると。三卿五大夫に於いてつまびらかにするは、
上聖之法也凡臣之言非以求免於咎也
上聖の法であります。凡(およ)そ、わたしの言(げん)は、咎(とが)を免(まぬか)れることを求めるを以ってするのでは非(あら)ざるなり。
將以諫而死願陛下為萬民思從道也
まさに諌(いさ)めるを以ってして死なんとし、願わくは陛下には万民の為(ため)に思い道(みち)に従(したが)ってください」と。
使者曰臣受詔行法於將軍
秦使者曰く、「わたしは詔(みことのり)をさずかって刑罰を将軍に於いて行(おこな)い、
不敢以將軍言聞於上也蒙恬喟然太息曰
敢(あ)えて将軍(蒙恬)の言(げん)を以って上(うえ)に於いて申し上げることはしません」と。秦内史将軍蒙恬は喟然(きぜん)とため息をついて曰く、
我何罪於天無過而死乎
「我(われ)は何(なに)を天(てん)に於いて罪(つみ)したのか。過(あやま)ち無くして死するのか?」と。
良久徐曰恬罪固當死矣起臨洮屬之遼東
しばらくたって、おもむろに曰く、「わたしの罪(つみ)はきっと死罪に当(あ)たるのだ。
臨洮(地名)にはじまり遼東(地名)に連(つら)ね、
城塹萬餘里此其中不能無絕地脈哉
築いたり掘(ほ)ったりすること一万余里。これ、その中途では地脈(ちみゃく)を絶(た)ちきらずにはできなかったであろうかな。
此乃恬之罪也乃吞藥自殺
これがすなわちわたしの罪(つみ)なのである」と。そこで毒薬を呑(の)んで自殺した。
太史公曰吾適北邊自直道歸
太史公曰く、「吾(われ)は北の辺境におもむき、直道より帰った。
行觀蒙恬所為秦筑長城亭障塹山堙谷
行って蒙恬が秦の為(ため)に築いたところの長城、亭障(高楼のあるとりで)を観(み)た。山を掘り谷(たに)をうめ、
通直道固輕百姓力矣夫秦之初滅諸侯
直道を通(つう)じるは、まことに百姓の労役を軽(かろ)んじていた。それ、秦の諸侯を滅ぼした初めのときは、
天下之心未定痍傷者未瘳而恬為名將
天下の心(こころ)は未(ま)ま定まらないうちで、負傷者は未(ま)だなおらないうちで、しこうして、蒙恬は名将として、
不以此時彊諫振百姓之急養老存孤
この時を以って強く諌(いさ)めず、百姓の急(きゅう)を救(すく)わず、老人を養(やしな)わず、戦争孤児を存(ながら)えさせず
務修眾庶之和而阿意興功此其兄弟遇誅
多くの民の和(わ)を修めることに務(つと)めなかった。しこうして、意(い)に阿(おもね)って
功績を興(おこ)した。ここにその兄弟が誅(ちゅう)に遇(あ)わされたのは、
不亦宜乎何乃罪地脈哉
なんともっともなことではないか。どうして、すなわち地脈に罪(つみ)したであろうかな」と。
今日で史記 蒙恬列伝は終わりです。明日からは史記 張耳陳余列伝に入ります。