番君以其女妻之章邯之滅陳勝
番君吳芮はその娘を以ってこれに娶(めと)らせた。秦将章邯が張楚王陳勝を滅(ほろ)ぼし、
破呂臣軍布乃引兵北擊秦左右校
呂臣軍を破(やぶ)った。英布(黥布)はそこで兵を引いて北に進み、秦の左右の校尉を撃(う)ち、
破之清波引兵而東
これを清波で破(やぶ)り、兵を引いて東へ進んだ。
聞項梁定江東會稽涉江而西
楚将項梁が江東の会稽を平定したと聞き、江を渉(わた)りて西へ進んだ。
陳嬰以項氏世為楚將乃以兵屬項梁
陳嬰は項氏が代々楚将軍と為っているのを以って、そこで兵を以って楚将項梁に属した。
渡淮南英布蒲將軍亦以兵屬項梁
淮南を渡(わた)り、英布(黥布)、蒲將軍もまた兵を以って楚将項梁に属した。
項梁涉淮而西擊景駒秦嘉等布常冠軍
楚将項梁は淮を渉(わた)りて西に進み、景駒、秦嘉らを撃(う)ち、英布(黥布)は常(つね)に軍に冠(かん)した。
項梁至薛聞陳王定死迺立楚懷王
楚将項梁は薛に至り、陳王(陳勝)が確かに死んだと聞き、すなわち楚懐王熊心を立てた。
項梁號為武信君英布為當陽君
楚将項梁は号して武信君と為り、英布(黥布)は号して当陽君と為った。
項梁敗死定陶懷王徙都彭城
項梁が敗(やぶ)れて定陶で死に、楚懐王熊心は都を(盱台から)彭城に移(うつ)した。
諸將英布亦皆保聚彭城
諸将、当陽君英布(黥布)もまた皆(みな)彭城に集まって守った。
當是時秦急圍趙趙數使人請救
ちょうとこの時、秦は急いで趙を包囲し、趙はたびたび人をつかわして救援を請(こ)うた。
懷王使宋義為上將范曾為末將
楚懐王熊心は宋義をして楚上将と為さしめ、范曾をして楚末将と為さしめ、
項籍為次將英在蒲將軍皆為將軍
長安侯(魯公)項籍(項羽)をして楚次将と為さしめ、当陽君英布(黥布)、蒲將軍をしてふたりとも楚将軍になさしめた。
悉屬宋義北救趙及項籍殺宋義於河上
ことごとく楚上将宋義に属して、趙を救援しに北へ進んだ。楚次将長安侯(魯公)項籍(項羽)が楚上将宋義を河上に於いて殺し、
懷王因立籍為上將軍諸將皆屬項籍
楚懐王熊心は 因(よ)りて楚次将長安侯(魯公)項籍(項羽)を立てて楚上将軍と為し、諸将は皆(みな)楚上将魯公項籍(項羽)に属した。
項籍使布先渡河擊秦布數有利
楚上将長安侯(魯公)項籍(項羽)は楚将当陽君英布(黥布)をして先(さき)に河を渡らせて秦を撃(う)たせた。楚将当陽君英布(黥布)はたびたび有利となり、
籍迺悉引兵涉河從之遂破秦軍降章邯等
楚上将長安侯(魯公)項籍(項羽)はすなわちことごとく兵を引いて河を渉(わた)り、これに従い、遂(つい)に秦軍を破(やぶ)り秦将章邯らを降(くだ)した。
楚兵常勝功冠諸侯
楚兵は常(つね)に勝ち、功績は諸侯に冠(かん)した。
諸侯兵皆以服屬楚者以布數以少敗眾也
諸侯兵が皆(みな)、楚に服属(ふくぞく)するを以ってしたのは、楚将当陽君英布(黥布)がたびたび
少数の兵を以って大勢の兵を敗(やぶ)るを以ってしたからである。
項籍之引兵西至新安又使布等夜擊阬章邯秦卒二十餘萬人
楚上将長安侯(魯公)項籍(項羽)は兵を引いて西に進み、新安に至った。また、楚将当陽君英布(黥布)をして夜に撃(う)たせしめ秦将章邯の秦の歩兵二十余万人を穴埋めにした。
至關不得入又使布等先從道破關下軍遂得入至咸陽
関に至り、入ることを得(え)ず、また楚将当陽君英布(黥布)らをして先(さき)に間道(かんどう ぬけみち)より関の下(もと)の軍を破(やぶ)らせ、遂(つい)に(関に)入るを得て、咸陽(秦の都)に至った。
布常為軍鋒項王封諸將立布為九江王都
楚将当陽君英布(黥布)は常(つね)に軍の先鋒(せんぽう)と為った。項王(西楚覇王項羽)は諸将を
封じ、楚将当陽君英布(黥布)を立てて九江王と為し、六を都(みやこ)とした。
漢元年四月諸侯皆罷戲下各就國
漢元年四月、諸侯は皆旗を下(お)ろして休み、各(おのおの)は国に就(つ)いた。
項氏立懷王為義帝徙都長沙
項氏(項梁)が立てた楚懐王熊心は楚義帝と為り、都(みやこ)を長沙に移(うつ)した。
乃陰令九江王布等行擊之其八月
そこで、ひそかに九江王英布(黥布)らに令(れい)してこれを撃(う)たせに行かせた。その(漢元年)八月、
布使將擊義帝追殺之郴縣
九江王英布(黥布)は将軍をして楚義帝熊心を撃(う)たせ、追いかけてこれを郴県で殺させた。
番君吳芮はその娘を以ってこれに娶(めと)らせた。秦将章邯が張楚王陳勝を滅(ほろ)ぼし、
破呂臣軍布乃引兵北擊秦左右校
呂臣軍を破(やぶ)った。英布(黥布)はそこで兵を引いて北に進み、秦の左右の校尉を撃(う)ち、
破之清波引兵而東
これを清波で破(やぶ)り、兵を引いて東へ進んだ。
聞項梁定江東會稽涉江而西
楚将項梁が江東の会稽を平定したと聞き、江を渉(わた)りて西へ進んだ。
陳嬰以項氏世為楚將乃以兵屬項梁
陳嬰は項氏が代々楚将軍と為っているのを以って、そこで兵を以って楚将項梁に属した。
渡淮南英布蒲將軍亦以兵屬項梁
淮南を渡(わた)り、英布(黥布)、蒲將軍もまた兵を以って楚将項梁に属した。
項梁涉淮而西擊景駒秦嘉等布常冠軍
楚将項梁は淮を渉(わた)りて西に進み、景駒、秦嘉らを撃(う)ち、英布(黥布)は常(つね)に軍に冠(かん)した。
項梁至薛聞陳王定死迺立楚懷王
楚将項梁は薛に至り、陳王(陳勝)が確かに死んだと聞き、すなわち楚懐王熊心を立てた。
項梁號為武信君英布為當陽君
楚将項梁は号して武信君と為り、英布(黥布)は号して当陽君と為った。
項梁敗死定陶懷王徙都彭城
項梁が敗(やぶ)れて定陶で死に、楚懐王熊心は都を(盱台から)彭城に移(うつ)した。
諸將英布亦皆保聚彭城
諸将、当陽君英布(黥布)もまた皆(みな)彭城に集まって守った。
當是時秦急圍趙趙數使人請救
ちょうとこの時、秦は急いで趙を包囲し、趙はたびたび人をつかわして救援を請(こ)うた。
懷王使宋義為上將范曾為末將
楚懐王熊心は宋義をして楚上将と為さしめ、范曾をして楚末将と為さしめ、
項籍為次將英在蒲將軍皆為將軍
長安侯(魯公)項籍(項羽)をして楚次将と為さしめ、当陽君英布(黥布)、蒲將軍をしてふたりとも楚将軍になさしめた。
悉屬宋義北救趙及項籍殺宋義於河上
ことごとく楚上将宋義に属して、趙を救援しに北へ進んだ。楚次将長安侯(魯公)項籍(項羽)が楚上将宋義を河上に於いて殺し、
懷王因立籍為上將軍諸將皆屬項籍
楚懐王熊心は 因(よ)りて楚次将長安侯(魯公)項籍(項羽)を立てて楚上将軍と為し、諸将は皆(みな)楚上将魯公項籍(項羽)に属した。
項籍使布先渡河擊秦布數有利
楚上将長安侯(魯公)項籍(項羽)は楚将当陽君英布(黥布)をして先(さき)に河を渡らせて秦を撃(う)たせた。楚将当陽君英布(黥布)はたびたび有利となり、
籍迺悉引兵涉河從之遂破秦軍降章邯等
楚上将長安侯(魯公)項籍(項羽)はすなわちことごとく兵を引いて河を渉(わた)り、これに従い、遂(つい)に秦軍を破(やぶ)り秦将章邯らを降(くだ)した。
楚兵常勝功冠諸侯
楚兵は常(つね)に勝ち、功績は諸侯に冠(かん)した。
諸侯兵皆以服屬楚者以布數以少敗眾也
諸侯兵が皆(みな)、楚に服属(ふくぞく)するを以ってしたのは、楚将当陽君英布(黥布)がたびたび
少数の兵を以って大勢の兵を敗(やぶ)るを以ってしたからである。
項籍之引兵西至新安又使布等夜擊阬章邯秦卒二十餘萬人
楚上将長安侯(魯公)項籍(項羽)は兵を引いて西に進み、新安に至った。また、楚将当陽君英布(黥布)をして夜に撃(う)たせしめ秦将章邯の秦の歩兵二十余万人を穴埋めにした。
至關不得入又使布等先從道破關下軍遂得入至咸陽
関に至り、入ることを得(え)ず、また楚将当陽君英布(黥布)らをして先(さき)に間道(かんどう ぬけみち)より関の下(もと)の軍を破(やぶ)らせ、遂(つい)に(関に)入るを得て、咸陽(秦の都)に至った。
布常為軍鋒項王封諸將立布為九江王都
楚将当陽君英布(黥布)は常(つね)に軍の先鋒(せんぽう)と為った。項王(西楚覇王項羽)は諸将を
封じ、楚将当陽君英布(黥布)を立てて九江王と為し、六を都(みやこ)とした。
漢元年四月諸侯皆罷戲下各就國
漢元年四月、諸侯は皆旗を下(お)ろして休み、各(おのおの)は国に就(つ)いた。
項氏立懷王為義帝徙都長沙
項氏(項梁)が立てた楚懐王熊心は楚義帝と為り、都(みやこ)を長沙に移(うつ)した。
乃陰令九江王布等行擊之其八月
そこで、ひそかに九江王英布(黥布)らに令(れい)してこれを撃(う)たせに行かせた。その(漢元年)八月、
布使將擊義帝追殺之郴縣
九江王英布(黥布)は将軍をして楚義帝熊心を撃(う)たせ、追いかけてこれを郴県で殺させた。