宛宛黃龍興而升
宛宛(えんえん)と伸び縮みして、黄龍は、徳を興(おこ)してのぼり、
采色燿熿炳煌
美しい彩(いろどり)で燿(げんよう)と光り輝き、熿炳(こうへい)と明るく、煌(こんこう)とさかんに輝き、
正陽顯見覺寤黎烝
日中の気が顕(あきら)かにあらわれ、もろもろの多くをめざめさせる」と。
於傳載之云受命所乘
伝に於いてこれを載(の)せ、天命をさずかり登(のぼ)ったところを云(い)う。
厥之有章不必諄諄
これの章に有るは、必ずしも諄諄(じゅんじゅん)とていねいではなく、
依類託寓諭以封巒
事例(じれい)に依(よ)りてことよせて、諭(さと)すに封巒(封禅?)を以ってした。
披藝觀之天人之際已交
芸事をひらいてこれを観(み)て、天と人の間はすでに交(まじ)わり、
上下相發允答聖王之兢兢翼翼也
上も下も相(あい)ともにまことの答えを発した。聖王の徳とは、兢兢(きょうきょう)と恐れあやぶみ、翼翼(よくよく)とうやうやしくつつしむことであり、
故曰興必慮衰安必思危
故(ゆえ)に曰く、「盛んであれば必ず衰(おとろ)えを慮(おもんばか)り、安(やす)らかであれば必ず危(あやう)きを思う。
是以湯武至尊嚴不失肅祗
ここに殷湯王、周武王が尊厳(そんげん)に至るを以って、うやうやしくつつしむことを失(うしな)わず、
舜在假典顧省厥遺此之謂也
帝舜がよい手本になって、その遺(のこ)した教えをかえりみた」と。これが思うことなのである。
宛宛(えんえん)と伸び縮みして、黄龍は、徳を興(おこ)してのぼり、
采色燿熿炳煌
美しい彩(いろどり)で燿(げんよう)と光り輝き、熿炳(こうへい)と明るく、煌(こんこう)とさかんに輝き、
正陽顯見覺寤黎烝
日中の気が顕(あきら)かにあらわれ、もろもろの多くをめざめさせる」と。
於傳載之云受命所乘
伝に於いてこれを載(の)せ、天命をさずかり登(のぼ)ったところを云(い)う。
厥之有章不必諄諄
これの章に有るは、必ずしも諄諄(じゅんじゅん)とていねいではなく、
依類託寓諭以封巒
事例(じれい)に依(よ)りてことよせて、諭(さと)すに封巒(封禅?)を以ってした。
披藝觀之天人之際已交
芸事をひらいてこれを観(み)て、天と人の間はすでに交(まじ)わり、
上下相發允答聖王之兢兢翼翼也
上も下も相(あい)ともにまことの答えを発した。聖王の徳とは、兢兢(きょうきょう)と恐れあやぶみ、翼翼(よくよく)とうやうやしくつつしむことであり、
故曰興必慮衰安必思危
故(ゆえ)に曰く、「盛んであれば必ず衰(おとろ)えを慮(おもんばか)り、安(やす)らかであれば必ず危(あやう)きを思う。
是以湯武至尊嚴不失肅祗
ここに殷湯王、周武王が尊厳(そんげん)に至るを以って、うやうやしくつつしむことを失(うしな)わず、
舜在假典顧省厥遺此之謂也
帝舜がよい手本になって、その遺(のこ)した教えをかえりみた」と。これが思うことなのである。