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司馬相如既卒五歲天子始祭后土

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司馬相如既卒五歲天子始祭后土

司馬相如が既(すで)に亡くなって五年、天子(漢孝武帝劉徹)は后土を祭(まつ)り始(はじ)めた。

八年而遂先禮中嶽封于太山至梁父禪肅然

八年して遂(つい)に先(さき)に中嶽に礼(れい)し、太山に封(天の神をまつること)をし、梁父に至(いた)って禅(地の神をまつること)をすること粛然(しゅくぜん)とつつしんでおこなった。

相如他所著若遺平陵侯書與五公子相難

司馬相如の他(ほか)の著(あらわ)したところで、平陵侯蘇建に送った書(しょ)のごとくは、五人の公子たちと互いに難(なん)じあい、

草木書篇不采采其尤著公卿者云

草木書篇(へん)は採(と)りいれられず、その公卿を著(あらわ)して非難したものを採(と)りいれたと云(い)う。

太史公曰春秋推見至隱易本隱之以顯

太史公曰く、「春秋経は現(あら)われたものを推(すい)して、隠(かく)れたものに至り、易経は隠(かく)れたものにもとづいて、顕(あらわ)すを以ってするにいたった。

大雅言王公大人而逮黎庶

(詩経の)大雅(雅は詩経の六義の一つ)は王公、大人にして徳(とく)が庶民に及(およ)ぶことを言い、

小雅譏小己之得失其流及上

(詩経の)小雅は、徳のない者の得失(とくしつ)の、その流れが上に及(およ)ぶことを非難(ひなん)した。

所以言雖外殊其合一也

言うを以ってしたところは、外(そと)は同じではないと雖(いえど)も、その徳に合(あ)わせるは同じである。

相如雖多虛辭濫說然其要歸引之節儉

司馬相如は誇大(こだい)な言葉、あふれるような説が多いと雖(いえど)も、然(しか)るにその要(かなめ)は、節倹(せっけん)をみちびくことに帰(き)する。

此與詩之風諫何異楊雄以為靡麗之賦

これは、詩経の風諌(それとなく諌(いさ)めること)と何が異(こと)なろうか。楊雄(人名)ははでて美しい賦(ふ 詩経の六義の一つ)をつくるを以ってし、

勸百風一猶馳騁鄭衛之聲

百(ひゃく)を勧(すす)めて、一(いち)をさとし、そのうえ、鄭(国名)、衛(国名)の歌声に思いを馳(は)せ、

曲終而奏雅不已虧乎

歌の終わりにして雅(詩経の六義の一つ)を奏(かな)でるは、すでに(風諌が)少なくなっていないだろうか。

余采其語可論者著于篇

わたしはその論(ろん)ずるべきを語(かた)ったものを採(と)って、篇(へん)に著(あらわ)した」と。


今日で史記 司馬相如列伝は終わりです。明日からは史記 淮南衡山列伝に入ります。

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