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Channel: 倭人伝を解く
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三年入朝甚從上入苑囿獵

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三年入朝甚從上入苑囿獵與上同車常謂上大兄

三年、入朝した。甚(はなは)だ勝手きままだった。上(漢孝文帝劉恒)に従(したが)って苑囿に入って猟(りょう)をし、上(漢孝文帝劉恒)と車を同じにして、常に上(漢孝文帝劉恒)を大兄と謂(い)った。

王有材力力能扛鼎乃往請辟陽侯

淮南王劉長は才能と力量が有り、力は鼎(かなえ)を持ち上げることができた。辟陽侯審食其にものをたのみに行くに及んで、

辟陽侯出見之即自袖鐵椎椎辟陽侯令從者魏敬剄之

辟陽侯審食其はこれに見(まみ)えに出ると、すなわち自ら鉄鎚(てっつい)を袖(そで)に入れて、
辟陽侯審食其をうち、従者の魏敬に令してこれの首をきらせた。

王乃馳走闕下肉袒謝曰臣母不當坐趙事

淮南王劉長は宮城の門の下に馳(は)せて走り、肌脱ぎして謝(あやま)って曰く、「わたしの母は趙の事に連座するには当たらず、

其時辟陽侯力能得之呂后弗爭罪一也

その時、辟陽侯審食其の力は呂后(劉邦の正室)を説得させることができたのに、争わなかった、罪の一つ目です。

趙王如意子母無罪呂後殺之辟陽侯弗爭罪二也

趙王劉如意の母子は罪無く、呂后がこれを殺し、辟陽侯審食其は争わず、罪の二つ目です。

呂后王諸呂欲以危劉氏辟陽侯弗爭罪三也

呂后は諸(もろもろ)の呂氏を王にし、欲するに劉氏を危(あや)ぶませるを以ってし、辟陽侯審食其は争わず、罪の三つ目です。

臣謹為天下誅賊臣辟陽侯報母之仇謹伏闕下請罪

わたしは謹(つつし)んで天下の為(ため)に賊臣(ぞくしん)の辟陽侯審食其を誅(ちゅう)し、
母の仇(あだ)に報(むく)いました。謹(つつし)んで、宮城門下に伏(ふ)して罪をたずねます」と。

孝文傷其志為親故弗治赦王

漢孝文帝劉恒はその志(こころざし)を傷(いた)み、親(ちか)い故(ゆえ)を思い、取調べず、淮南王劉長を赦(ゆる)した。

當是時薄太后及太子諸大臣皆憚王王以此歸國益驕恣

まさにこの時、薄太后及び皇太子(劉啓)、諸(もろもろ)の大臣は皆(みな)淮南王劉長を憚(はばか)り、淮南王劉長はこれを以って国に帰りますますおごり高ぶってわがままになっていった。

不用漢法出入稱警蹕稱制自為法令擬於天子

漢の法を用いず、出入りに先払(さきばら)いを称(とな)え、勅命(ちょくめい)を称(とな)え、自ら法令をつくり、天子に擬(なぞら)えた。

六年令男子但等七十人與棘蒲侯柴武太子奇謀

六年、男子但ら七十人に令して棘蒲侯柴武(陳武)の太子(柴奇、陳奇)と謀(はか)らせ、

以輂車四十乘反谷口令人使閩越匈奴

輂車(れんしゃ てぐるま)四十台を以って谷口で叛(そむ)き、人に令して閩越、匈奴に使(つか)いさせた。

事覺治之使使召淮南王淮南王至長安

事が発覚し、これを取り調べ、使者をつかわして淮南王劉長を召し寄せさせた。淮南王劉長が長安に至った。

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