孝文十二年民有作歌歌淮南王曰
漢孝文帝十二年、民の有るものが歌をつくり、歌は淮南王劉長を歌って曰く、
一尺布尚可縫一斗粟尚可舂
「一尺(二十数cm)の布でも尚(なお)縫(ぬ)うことはでき、一斗(十升)の粟(あわ)でも、
尚(なお)臼(うす)でつくことができる。
兄弟二人不能相容上聞之乃嘆曰
兄弟二人は相(あい)容(い)れることはできない」と。上(漢孝文帝劉恒)はこれを聞いて、すなわち嘆(なげ)いて曰く、
堯舜放逐骨肉周公殺管蔡天下稱聖何者不以私害公
「帝堯、帝舜は、骨肉(息子の丹朱、同じく息子の商均)を放逐(ほうちく)し、周公(姫旦)は管、蔡(姫鮮、姫度 いづれも兄弟)を殺し(蔡叔度は流刑)たが、天下は聖人と称(たた)えた。なんとなれば、私を以って公(おおやけ)を害していないからだ。
天下豈以我為貪淮南王地邪乃徙城陽王王淮南故地
天下はいったい、我(われ)を以って淮南王の領地を貪(むさぼ)ったと思ったのだろうか」と。そこで、城陽王(劉喜 齊悼惠王劉肥(劉邦の庶長子)の子の劉章の子)を移(うつ)して、淮南王劉長の故地を統治させ、
而追尊謚淮南王為王置園復如諸侯儀
しこうして追尊して淮南王劉長におくり名をつけて王とし、園を置いて、諸侯の儀の如(ごと)く復(ふく)した。
孝文十六年徙淮南王喜復故城陽
漢孝文帝十六年、淮南王劉喜を移して以前の城陽にもどした。
上憐淮南王廢法不軌自使失國蚤死乃立其三子
上(漢孝文帝劉恒)は淮南王劉長が法を廃(はい)してしたがわず、みずから国を失わせて早死にしたことを憐(あわ)れみ、そこでその三人の子を立てて、
阜陵侯安為淮南王安陽侯勃為衡山王陽周侯賜為廬江王皆復得王時地參分之
阜陵侯劉安は淮南王に為さしめ、安陽侯劉勃は衡山王に為さしめ、陽周侯劉賜は廬江王に為さしめ、
皆(みな)ふたたび淮南王劉長の時の領地を得て、これを三つに分(わ)けた。
東城侯良前薨無後也
東城侯(或いは東成侯)劉良は前(さき)に死に、後継は無かったのである。
漢孝文帝十二年、民の有るものが歌をつくり、歌は淮南王劉長を歌って曰く、
一尺布尚可縫一斗粟尚可舂
「一尺(二十数cm)の布でも尚(なお)縫(ぬ)うことはでき、一斗(十升)の粟(あわ)でも、
尚(なお)臼(うす)でつくことができる。
兄弟二人不能相容上聞之乃嘆曰
兄弟二人は相(あい)容(い)れることはできない」と。上(漢孝文帝劉恒)はこれを聞いて、すなわち嘆(なげ)いて曰く、
堯舜放逐骨肉周公殺管蔡天下稱聖何者不以私害公
「帝堯、帝舜は、骨肉(息子の丹朱、同じく息子の商均)を放逐(ほうちく)し、周公(姫旦)は管、蔡(姫鮮、姫度 いづれも兄弟)を殺し(蔡叔度は流刑)たが、天下は聖人と称(たた)えた。なんとなれば、私を以って公(おおやけ)を害していないからだ。
天下豈以我為貪淮南王地邪乃徙城陽王王淮南故地
天下はいったい、我(われ)を以って淮南王の領地を貪(むさぼ)ったと思ったのだろうか」と。そこで、城陽王(劉喜 齊悼惠王劉肥(劉邦の庶長子)の子の劉章の子)を移(うつ)して、淮南王劉長の故地を統治させ、
而追尊謚淮南王為王置園復如諸侯儀
しこうして追尊して淮南王劉長におくり名をつけて王とし、園を置いて、諸侯の儀の如(ごと)く復(ふく)した。
孝文十六年徙淮南王喜復故城陽
漢孝文帝十六年、淮南王劉喜を移して以前の城陽にもどした。
上憐淮南王廢法不軌自使失國蚤死乃立其三子
上(漢孝文帝劉恒)は淮南王劉長が法を廃(はい)してしたがわず、みずから国を失わせて早死にしたことを憐(あわ)れみ、そこでその三人の子を立てて、
阜陵侯安為淮南王安陽侯勃為衡山王陽周侯賜為廬江王皆復得王時地參分之
阜陵侯劉安は淮南王に為さしめ、安陽侯劉勃は衡山王に為さしめ、陽周侯劉賜は廬江王に為さしめ、
皆(みな)ふたたび淮南王劉長の時の領地を得て、これを三つに分(わ)けた。
東城侯良前薨無後也
東城侯(或いは東成侯)劉良は前(さき)に死に、後継は無かったのである。