孝景三年吳楚七國反吳使者至淮南淮南王欲發兵應之
漢孝景帝三年、呉楚七国が反乱し、呉の使者が淮南に至った。淮南王劉安は兵を発してこれに応ずることを欲した。
其相曰大王必欲發兵應吳臣願為將王乃屬相兵
その相(張釈之)曰く、「大王(劉安)が必ず兵を発して呉に応じようと欲するならば、わたしは願わくは将軍にしてください」と。淮南王劉安はそこで淮南相張釈之に兵をひきわたした。
淮南相已將兵因城守不聽王而為漢漢亦使曲城侯將兵救淮南
淮南相張釈之がすでに兵を率(ひき)いると、因(よ)りて城を守り、淮南王劉安を聴きいれずして、漢の為(ため)にした。漢もまた曲城侯をつかわして兵を率(ひき)いて淮南を救(すく)わせた。
淮南以故得完吳使者至廬江廬江王弗應而往來使越
淮南は故(ゆえ)を以って完全に保つことを得た。呉の使者が廬江に至ると廬江王劉賜は応じず、しこうして使者を越に往き来させた。
吳使者至衡山衡山王堅守無二心孝景四年吳楚已破衡山王朝
呉の使者が衡山に至ると、衡山王劉勃は堅守(けんしゅ)して二心(にしん)が無かった。漢孝景帝四年、呉楚がすでに破れ、衡山王劉勃は朝した。
上以為貞信乃勞苦之曰南方卑溼徙衡山王王濟北所以褒之
上(漢孝景帝劉啓)は正しく信用があると思い、そこで、これをねんごろにねぎらって曰く、「南方は土地が低くて湿気が多い」と。衡山王劉勃を移(うつ)して、済北を統治させたのは、これに褒美(ほうび)するを以ってしたところである。
及薨遂賜謚為貞王廬江王邊越數使使相交故徙為衡山王王江北淮南王如故
(済北王劉勃が)亡くなるに及んで、遂(つい)におくり名を賜(たま)わって済北貞王と為した。
廬江王劉賜は越にとなりあい、たびたび使者をして相(あい)交(まじ)り、故(ゆえ)に移(うつ)して衡山王と為さしめ、江北を統治させた。淮南王劉安は前の如(ごと)くした。
淮南王安為人好讀書鼓琴不喜弋獵狗馬馳騁亦欲以行陰拊循百姓流譽天下
淮南王劉安の人と為りは読書、鼓琴を好み、いぐるみ、猟(りょう)の犬、馬が走りまわるのを喜ばず、
また、かくれた善行を行うを以って百姓をいつくしむことを欲し、誉(ほまれ)を天下に流した。
時時怨望王死時欲畔逆未有因也及建元二年淮南王入朝
時々、淮南王劉長の死をうらめしく思い、機会を待って叛逆(はんぎゃく)を欲したが、未(ま)だつてを有(ゆう)していなかったのである。建元二年に及んで、淮南王劉安は入朝した。
素善武安侯武安侯時為太尉乃逆王霸上與王語曰
素(もと)より武安侯田蚡と仲が善く、武安侯田蚡はこの時漢大尉として、すなわち霸上に淮南王劉安を出迎え、淮南王劉安とともに語って曰く、
方今上無太子大王親高皇帝孫行仁義天下莫不聞
「まさに今、上(漢孝武帝劉徹)には太子が無く、大王は親(ちか)く高皇帝(劉邦)の孫(まご)で、行いは仁義で、天下には知らないものはおりません。
即宮車一日晏駕非大王當誰立者淮南王大喜厚遺武安侯金財物
すなわち、宮車がある日暗闇(くらやみ)に駕(が)すれば、大王で非(あら)ずしてまさに誰が立つべき者でしょうか」と。淮南王劉安は大いによろこび、厚く武安侯田蚡に金、財物を贈(おく)った。
陰結賓客拊循百姓為畔逆事建元六年彗星見淮南王心怪之
ひそかに賓客とまじわり、百姓をいつくしみ、叛逆事を思った。建元六年、彗星(すいせい)があらわれ、淮南王劉安の心はこれを怪(あや)しんだ。
或說王曰先吳軍起時彗星出長數尺然尚流血千里今彗星長竟天天下兵當大起
或(あ)るものが淮南王劉安に説いて曰く、「先(さき)に呉軍が起こった時、彗星が出るは数尺の長さで、然(しか)るに尚(なお)流血(りゅうけつ)は千里(せんり)の長さであったのですから、今、彗星の長さは夜空のしまいまでのび、天下の兵はまさに大いに起こることでしょう」と。
王心以為上無太子天下有變諸侯并爭愈益治器械攻戰具積金錢賂遺郡國諸侯游士奇材
淮南王劉安の心は、上(漢孝武帝劉徹)には太子がおらず、天下が変事を有(ゆう)すれば、諸侯がならび争うと思い、いよいよますます器械、攻戦具を治(おさ)め、金銭を積(つ)んで郡国、諸侯、游士、すぐれた人材に賂(まいない)した。
諸辨士為方略者妄作妖言諂諛王王喜多賜金錢而謀反滋甚
諸(もろもろ)の弁士(べんし)が方略(ほうりゃく 策略)者と為って、妖言(ようげん 世の人をまよわす怪しいうわさ)を妄作(ぼうさ でたらめ)し、淮南王劉安に諂諛(てんゆ へつらう)し、淮南王劉安は喜び、金銭を多く賜(たま)わり、しこうして、叛逆(はんぎゃく)を謀(はか)るはますます甚(はなは)だしくなっていった。
漢孝景帝三年、呉楚七国が反乱し、呉の使者が淮南に至った。淮南王劉安は兵を発してこれに応ずることを欲した。
其相曰大王必欲發兵應吳臣願為將王乃屬相兵
その相(張釈之)曰く、「大王(劉安)が必ず兵を発して呉に応じようと欲するならば、わたしは願わくは将軍にしてください」と。淮南王劉安はそこで淮南相張釈之に兵をひきわたした。
淮南相已將兵因城守不聽王而為漢漢亦使曲城侯將兵救淮南
淮南相張釈之がすでに兵を率(ひき)いると、因(よ)りて城を守り、淮南王劉安を聴きいれずして、漢の為(ため)にした。漢もまた曲城侯をつかわして兵を率(ひき)いて淮南を救(すく)わせた。
淮南以故得完吳使者至廬江廬江王弗應而往來使越
淮南は故(ゆえ)を以って完全に保つことを得た。呉の使者が廬江に至ると廬江王劉賜は応じず、しこうして使者を越に往き来させた。
吳使者至衡山衡山王堅守無二心孝景四年吳楚已破衡山王朝
呉の使者が衡山に至ると、衡山王劉勃は堅守(けんしゅ)して二心(にしん)が無かった。漢孝景帝四年、呉楚がすでに破れ、衡山王劉勃は朝した。
上以為貞信乃勞苦之曰南方卑溼徙衡山王王濟北所以褒之
上(漢孝景帝劉啓)は正しく信用があると思い、そこで、これをねんごろにねぎらって曰く、「南方は土地が低くて湿気が多い」と。衡山王劉勃を移(うつ)して、済北を統治させたのは、これに褒美(ほうび)するを以ってしたところである。
及薨遂賜謚為貞王廬江王邊越數使使相交故徙為衡山王王江北淮南王如故
(済北王劉勃が)亡くなるに及んで、遂(つい)におくり名を賜(たま)わって済北貞王と為した。
廬江王劉賜は越にとなりあい、たびたび使者をして相(あい)交(まじ)り、故(ゆえ)に移(うつ)して衡山王と為さしめ、江北を統治させた。淮南王劉安は前の如(ごと)くした。
淮南王安為人好讀書鼓琴不喜弋獵狗馬馳騁亦欲以行陰拊循百姓流譽天下
淮南王劉安の人と為りは読書、鼓琴を好み、いぐるみ、猟(りょう)の犬、馬が走りまわるのを喜ばず、
また、かくれた善行を行うを以って百姓をいつくしむことを欲し、誉(ほまれ)を天下に流した。
時時怨望王死時欲畔逆未有因也及建元二年淮南王入朝
時々、淮南王劉長の死をうらめしく思い、機会を待って叛逆(はんぎゃく)を欲したが、未(ま)だつてを有(ゆう)していなかったのである。建元二年に及んで、淮南王劉安は入朝した。
素善武安侯武安侯時為太尉乃逆王霸上與王語曰
素(もと)より武安侯田蚡と仲が善く、武安侯田蚡はこの時漢大尉として、すなわち霸上に淮南王劉安を出迎え、淮南王劉安とともに語って曰く、
方今上無太子大王親高皇帝孫行仁義天下莫不聞
「まさに今、上(漢孝武帝劉徹)には太子が無く、大王は親(ちか)く高皇帝(劉邦)の孫(まご)で、行いは仁義で、天下には知らないものはおりません。
即宮車一日晏駕非大王當誰立者淮南王大喜厚遺武安侯金財物
すなわち、宮車がある日暗闇(くらやみ)に駕(が)すれば、大王で非(あら)ずしてまさに誰が立つべき者でしょうか」と。淮南王劉安は大いによろこび、厚く武安侯田蚡に金、財物を贈(おく)った。
陰結賓客拊循百姓為畔逆事建元六年彗星見淮南王心怪之
ひそかに賓客とまじわり、百姓をいつくしみ、叛逆事を思った。建元六年、彗星(すいせい)があらわれ、淮南王劉安の心はこれを怪(あや)しんだ。
或說王曰先吳軍起時彗星出長數尺然尚流血千里今彗星長竟天天下兵當大起
或(あ)るものが淮南王劉安に説いて曰く、「先(さき)に呉軍が起こった時、彗星が出るは数尺の長さで、然(しか)るに尚(なお)流血(りゅうけつ)は千里(せんり)の長さであったのですから、今、彗星の長さは夜空のしまいまでのび、天下の兵はまさに大いに起こることでしょう」と。
王心以為上無太子天下有變諸侯并爭愈益治器械攻戰具積金錢賂遺郡國諸侯游士奇材
淮南王劉安の心は、上(漢孝武帝劉徹)には太子がおらず、天下が変事を有(ゆう)すれば、諸侯がならび争うと思い、いよいよますます器械、攻戦具を治(おさ)め、金銭を積(つ)んで郡国、諸侯、游士、すぐれた人材に賂(まいない)した。
諸辨士為方略者妄作妖言諂諛王王喜多賜金錢而謀反滋甚
諸(もろもろ)の弁士(べんし)が方略(ほうりゃく 策略)者と為って、妖言(ようげん 世の人をまよわす怪しいうわさ)を妄作(ぼうさ でたらめ)し、淮南王劉安に諂諛(てんゆ へつらう)し、淮南王劉安は喜び、金銭を多く賜(たま)わり、しこうして、叛逆(はんぎゃく)を謀(はか)るはますます甚(はなは)だしくなっていった。